2006年06月05日

6月2日

 今回はちょっと普段と語調が違います。一気に本を読んだためです。また、書く内容に合わせてという判断でもあります。

   *

 6月2日(金)、昼から名古屋に行った。9月2日(土)の『今池まつり』でISAMUさんとステージをつとめることになっており、主催者の方と、その簡単な挨拶・打ち合わせをすることになっていた。また、この日の夜は藤が丘の『WEST DARTS CLUB』で朗読劇『本読ム夜』の第1回公演もあった。名古屋パルコで開催されている『木村祐一展』も見てみたかった。

 時計を見間違えて1時間早く家を出てしまったが『早くて困るということはない』と駅のホームで気づいた。
 車中で座った席は、端の席で4人が2人ずつ向かいあう格好だった。私は窓側に詰めて座った。私の正面にいた中年男性は足を大きく開き、腰を前に付き出していた。次の駅で私の隣、通路側に座った男性もまた、足を大きく開き膝をぶつけてきた。男性は鞄の中をまさぐり、肘もぶつけてきた。『妙な時間に電車に乗ると、ふだん遭わない目に遭うな』と思ったが考えすぎだろう。彼らからしてみれば目の前・隣に異様な青年が座っていたのだからおあいこだ。
 とはいえ、私は電車内で警戒されるタチなので、前方と横から遠慮なく圧迫してくる2人の男性には戸惑った。あまりこういう経験はない。私と合い席になった人は、たいてい萎縮する。普通にしてればいいのに、なぜか靴をまっすぐに揃えたり、荷物をしっかり抱きかかえたりし始める。こちらをチラチラうかがっていたかと思うと、フッと吊り広告に視線を飛ばす。よくわからないが私を警戒しているのだと思う。生真面目に膝の上にリュックを乗せ、律儀に足を椅子の下に引っ込め、体を壁際に寄せ、黙々と本を読む妙な青年が合い席では……危害はなくとも気は詰まるだろう。
 考えすぎかもしれない。私に限らず、電車内では誰と誰の組み合わせでも似たようなものなのかもしれない。ただ、いつもと少し違うこの日の男性2人には戸惑った。私を警戒している風でもなく、蔑視している風でもなく、触れるでも触れぬでもなく圧迫してくる。何だったのだろう。
 2人とも、単にガタイがよかっただけなのかもしれない。腹が出ていただけとも考えられる。疲れていただけかもしれない。

 千種駅で下車すると、やはり、約束の時間まであと1時間以上もあった。私は千種駅から歩き、今池の古本屋『神無月書店(書房、だったかもしれない。失念)』に向かった。
 時間があったので、全ての棚の背表紙を眺め、何かないかと探った。100円コーナーにて、ボブ・グリーンの『ホームカミング』を発見。おお、ボブ・グリーン。
 E.E.カミングズも見つけた。カミングズは思潮社の文庫を持っているのだが、この日ここで見つけた本は、ハードカバーでかなり褪色した趣のある本だった。この本、ぱらぱらとめくると奥付けの次のページにサインペンでこんな詩が書かれてあった──

死んだ男
誰にもとがめられず
空の???に入る これもなを
死んでレス± と再開する.
それは ?えたワセリンの?いねなく
?ひく抱よりしあう時
?の?レモンと葉?滲したズケの?みを直して

*以下略。
*達筆のため「?」の文字は判読不能。


──別にこの詩に惹かれたわけではない。ただ、なにか異様な空気を受け興味をそそられてしまったので買ってしまった。100円ならば痛くもなし。なおこの本は詩集ではなく短編集のようだ。
 挿絵と格言的な文言が気になったので(全く知らない人だが)『ピエール・ルヴェルディ』という人物の詩集も購入した。このような一節が目をひいた──

 大衆が理解したがらないこととは、大衆が求めているものとは別のものを彼に見せようと望むことだ。

   *

 生徒が理解しない時、教科書のせいにするのか、あるいは教師のせいにするのか? 大衆が理解しないというのはなぜ決して間違っていないのか?

   *

 芸術家は大衆に結果を提供する。すると錠前屋にどのような方法で錠を作ったのか決して尋ねない大衆は、この結果を手に入れるために芸術家がどこを通って来たのかを知りたがる。大衆は、結果に通じる同じ道を芸術家のあとから辿っているという幻覚を自分に与えてくれる作品を好むものだ。


──何者だピエール。
 その他には『現代詩手帳』の1991年7月号が目に留まった。特集が「詩になにができるか」。『何だその漠然とした問題提起は?』と一瞬カチンと来たが、15年前に誰がどんなクダをどんな方向へ巻いていたか興味が沸き、つい買ってしまった(そういえば3ヶ月ぐらい前にも、特集に惹かれて『現代詩手帳』のバックナンバーを買ってしまっていた。それは2003年5月号「『読者』いま詩はどこに届くか」。これまた何とも情けないテーマだ。しかし『今回買ったものとあわせて読み通せば「詩がいつから行き詰まったか」が垣間見えるかもしれない』とも期待している。期待するような明るい話題でもないが)。
 店内の奥では、形而上詩人と言われる「ジョン・ダン」の詩集も見つかり(機会があれば読みたいと思っていたものなので)大喜びしたが、中を見ると期待となんだか違ったのでこれは買わなかった。

 私がカウンターで支払いをしていると、背後から「こんにちわー、○○です、見せてもらってもいいですかー」と老人が店に入ってきた。『何だその挨拶は?』と不審に思ったが、店主は「どうぞどうぞ」と老人を一角に案内し、書物を示した。老人はしげしげとそれを検分していた。私が支払いを終え、店から出ようと歩みだすと、今度は背後で老人が「買いましょう、2万円でいいですね」と言った。そして間髪いれずに「こういう棟方志功さんの他にもないですかね」とも言った。なんだかわからないが収集家だったらしい。あらかじめ店に電話をかけて品の有る無しを調べ、今日は実際に品定めに来たのだろう。なにやら生々しいものを見てしまったような気がして、店を出てもしばらく落ち着かなかった。

 ISAMUさんとは千種の書店『ちくさ正文館』で会うことになっていたが、まだ時間があったため私は『ちくさ正文館』そばの公園でベンチに腰を下ろした。ぼんやり煙草をふかしながら、私は鬱屈とした気分になっていた。その公園にはホームレスが荷造りを行っており、鳩の大群が芝生を喰らっていた。また公園そばには(ジングルが特徴的ななテレビCMをよく流している)専門学校のビルがあった。午後の授業がひと段落した時間なのか、ビルの入口からは若者がぞろぞろと際限なく湧き出していた。どの若者も裕福そうで、今風の服装をしていた(「裕福そう」というのは、彼・彼女らのコーディネートに着まわしの利かないデザインや色合わせが珍しくなかったためだ。彼・彼女らは衣服にそれなりの金額をかけているのだろう。珍しくもないことだが)。色とりどりの若者たちがホームレスの横を笑顔で通り過ぎていく。
 名古屋に通うようになってだいぶ経つが、私はいまだに都市が好きになれない。大都市の狂った部分を目にするたび、私は(何に宛ててでもないが)嫌気がする。名古屋や大阪、東京のような大都市で生まれ育った人間は、ホームレスや路上パフォーマー、ティッシュ配りや放置自転車などを見て何も感じないのだろうか。平然と横を通り、淡々と学校に通い、いつか専門職に就いて何かを成し遂げる気なのか。わからない。
 私は若者たちを眺めながら、ほんやりと『あの娘がどんな美容師でも私の髪はやって貰いたくない』『あの少年がどんな映像作家でも報道にだけは関わってくれるな』などと思った。そして即座に『己のことを棚に上げて何を言っている』と自分を責めた。大都会に来ると、たまにこんな思考の迷路に落ちる。当然のことながら良い気分ではない。

 煙草を吸い終え、公園でボブ・グリーンを読み進めた。『ホームカミング』はベトナム帰還兵たちの投書をまとめた本。井上一馬・訳、文芸春秋・刊、ハードカバー。のちのち改めて感想を書くつもりだが、簡単に触れておく。
 コラムニストであるグリーンは、自分のコラムで次のような疑問を記した──

P.9
 じつは、もう何年も前から私は、この国の兵士たちがヴェトナムから帰還したさい、反戦運動化たちによって唾を吐きかけられたという噂を耳にしてきた。しかも多くの場合には、話は驚くほど具体的だった。
 ヴェトナムでの任務を終えて帰ってきたばかりの軍服を着た兵士たちが、空港で飛行機を降りると、そこで、「ヒッピー」に唾を吐きかけられる。
 そこではなぜか必ず唾を吐きかけられるのは空港で、唾を吐きかけるのは「ヒッピー」ということになっていた。

P.10
 私は知らず知らずのうちにそれについて考えはじめていた。少なくともわれわれは、あの当時、ヴェトナムから帰ってきた兵士たちを迎えるために、パレードや慰労パーティが行われなかったことを知っている。だとすれば、彼らが唾を吐きかけられた可能性は十分に存在することになる。
 だが、はたしてそんなことが本当にありうるだろうか。反戦運動がもっとも高まりを見せていた時期でさえ、反戦運動家たちが非難していたのは、政府の高官と軍の最高司令官たちだったのではないだろうか。少なくとも私の記憶ではそう思える。

P.10
 それに、噂では起こったとされている出来事を現実的に想像してみても、疑問な点がいくつかある。
 あの時代いわゆる「ヒッピー」と呼ばれていた人間に対して人びとがどのようなイメージを抱いていたとしても。彼らがこの世の中を代表するようなマッチョ・タイプの人間ではなかったことだけはまちがいない。そのことを踏まえたうえで、筋骨隆々の元グリーン・ベレーの兵士が、軍服姿で空港を歩いている姿を思い浮かべてみてほしい。そしてその前を、たとえばひとりの「ヒッピー」が横切るとする。はたしてそのヒッピーは兵士に向かって唾を吐きかける勇気があるだろうか?

P.11
 そうしたことが私には疑問に思えてならなかった。そして結局私は、その問題を新聞の自分のコラムのなかで取り上げた。

P.11
 もちろん私はこの質問を軽い気持ちで、あるいは単なる好奇心から元兵士たちに投げかけたわけではない。もし兵士たちが唾を吐きかけられたという噂が本当だとすれば、われわれは、その事実を知る必要がある。あるいは逆に、もしそれが神話にすぎないのだとすれば、やはりそのこともわれわれは知る必要がある。そう思ったからこそ私は、この疑問に答えてくれるかもしれないヴェトナム帰還兵たちに対して、もし本当に唾を吐きかけられたのだとすれば、そのおおまかな日時と場所と状況を知らせてくれるようにコラムのなかで呼びかけたのである。


──この問いかけが掲載されてから、グリーンへ帰還兵たちから大量の手紙が送られてきた。唾を受けたと述べる者、受けなかったと述べる者、別の視点を差し出す者など。手紙はどれも生々しいものだった。この時、アメリカ撤退(1973年)から約15年後。
 冒頭からたちまち釘付けになった。とてつもない良書だった。『こんな逸品も100円で叩き売るのか?』。10ページ読めばもう価値がわかりそうなものなのに、あの古本屋はどういう基準で値を付けているのか。カバーがいくぶん汚れていたので、そのせいかもしれない。だがそれを含めても100円はないだろう。おかげで私は幸運な出会いをできたわけだが……。

 時間になったので本を閉じ、『ちくさ正文館』へ向かった。店内で、ISAMUさん・店長の古田さん(お久しぶりです)と少し立ち話をした。10月『TOKUZO』でのイベントについてなど。どうも恐縮してしまった。
 その後、ISAMUさんと今池のお寿司屋さんへ移動し、大将と『今池まつり』の簡単なミーティングをした。禁止事項や機材、プログラムに記載する名称などについて。失礼ながら、岐阜県民でもある私は名古屋の『今池まつり』を見たことがない。大将から去年のプログラムを見せてもらい、ISAMUさんからは去年の様子などを聞いた。9月はISAMUさんと若原の2人で1時間を務めることになっており、不安も無いではない。オープンマイクやフリートークなども行う予定だが、自分なりに弾数や飛び道具を練っておく必要がありそうだ。
 その後、2人で今池のライブバー『パラダイスカフェ』にも行った。ISAMUさんが注目しているスポットらしい。平日開催でお借りする場合の値段やシステム、開店・閉店時間、機材やその他について聞いた。ちらっと会場を覗かせてもらったが、客席が広く、ステージも広かった。システムもお手ごろだった。平日に何かやるのなら憶えておきたい。いい雰囲気の場所だった。スタッフの方も丁寧で親切だった。

   *

 路上でまた少し立ち話をしたあとISAMUさんと別れ、私は地下鉄で移動、矢場町で下車、名古屋パルコの『木村祐一展』へ向かった。
 地下鉄「矢場町」駅は面妖なつくりで、改札を出ると壁にパルコのオブジェがある。出口を探すと、高島屋に出たり地下駐車場に出たり『ランの館』に導かれたり公園の中に出たりする。このあたりはいわゆる繁華街で(と言っても田舎育ちの私には名古屋全体が繁華街に見えるのだが)、スニーカー専門店とか、壁にツタが這っているオープンカフェとか、欲望と体裁を丸め込んだような店が並んでいる。歩いている人々もおしゃれで都会的だ。どうにも苦手だ。
 名古屋パルコの入口では、従業員がプラカードを持って立ち、ポイントカードへの入会を呼びかけていた。「今なら2000円の商品券をプレゼントさせて頂きますー、受付のお席あいておりますのでどうぞー」。先月だったか先々月だったか、以前パルコのそばを通った時も同じことをやっていた気がする。気分がすさむ。
 建物に入って、さらに気力が下がった。普通、デパートなら中はバラエティに富んでいる。地下に食料品があり、中間に衣服があり、上の階に家電や家具がある。『いろんなジャンルがひとつのビルにまとまっているのが商業ビルだ』というイメージが私にはある。しかし名古屋パルコは違った。ここはデパートではなくファッションビル(死語?)なので、生活用品もなければ多ジャンルにもなっていない。衣服・水着・アクセサリー・小物・化粧品・靴・飲食店など、必要性のわからないアイテムがどこまでも並ぶ。派手な色づかいのブースが競って延々と続く。通り過ぎる客や店員は誰も、立ち並ぶアイテムを着こなしツンとすまして動いている。場違いなところに来てしまったようでいたたまれなくなった。

 東館から西館に移動しエレベーターで8階へ。やる気のなさげな受付で入場料300円を払い『木村祐一展』に入った。入口には木村祐一の「だんだん短くなるプロフィール」が貼られていた。かしこまったプロフィールが、だんだん無駄を省かれていき、最後には「写術」の2文字になってしまう。いきなり、何だ。
 進むとその『写術』の展示があった。壁に写真が飾ってあり、ヘッドホンが備えられている。ヘッドホンをかけ壁のボタンを押すと、写真の解説が聞けるというもの。ライブの映像も流されていた。うまく伝わらないことは承知で、一部を回想・紹介してみる──

「このお店。スナック『マユミの城』書いたりますね。マユミさんが苦労して作りはったんでしょう。なんでかイギリスの国旗がついてますけどまあ、お城ということで。……でもこの店、閉まってたんです。ここに貼り紙がしてあるんですけど。『お母さんに会ってきます』。どこまで行くねんという」

「こちら。『大変恐縮ですが当店の皿うどんはあんかけになりました』。どれほど悩んであんかけにしたかということですよ。『あれえ? うちの皿うどんおかしいんやないやろか。ほかはトロッとしたのがかかったるのにうちは……。でも師匠はこういう風に作ったあったしなあ。なあお前、これうちの皿うどん……』『はよ仕込みしいや!』『うーん……』みたいなね。で何ヶ月もかけて決心してやっと『大変恐縮ですが当店の皿うどんはあんかけになりました』。まだちょっと迷ってるんでしょう」

「えー、カメラ屋さんです。これ一見『アオキカメラ』に見えるんですけど実は『アキオカメラ』なんですね。……まぎらわしーわ、もうええやん『アオキカメラ』で」

「これラーメン屋のカウンターにあった塩のフタなんですけどね。ちょっとずれてるんです。手塚先生のベレー帽みたいになってる。『あっ、手塚先生や!』いうことでこんなのも撮ってみたんですけどね。ただそれだけなんですけれども。……。手塚先生は人々の心に残ってんのやなあ、と」

「これ。ワゴンセール『難有り PLAYBOY 500円』。ま、これはいいんですけどこの店、次。衣服『涙のサービス980円』。『涙のサービス』てちょとあまり見ない言い方ですけれども。この店ほかにも、はい。『涙のサービス』『涙のサービス』『涙のサービス』『涙のサービス』『涙のサービス』……みんな『涙のサービス』中やんか。どんだけ涙流さなあかんのかと。でもこの店ね、家具とかも売ってるんです。遠景こちら。『くだものや西崎』。どないやねん。まあ果物屋からリサイクルショップになったんでしょうけどね」

「次これです。ウィンドウに『カメラ半額!』貼ってありますね。となりに『時計半額!』があって、『全商品半額!』『鏡半額!』。じゃあ『全商品半額!』でええやん。なにを分けて書く必要があるのかという」

「こちら。自分の車のメーターなんですけど。走行距離が『7777』です。で次こちら。『8888』。次『9999』。こうなると、今度は11111やなあと狙ったんですけどね、こちら。『11112』。しまったーと思って。でもこれ戻すわけいきませんしね……まあ今度は22222かと思ったんですけど。後輩に話したら『いや兄さん! その前に12345があるじゃないですか!』言われて。そやったな、で、これです。『12354』。ああっ、もうっ」


──うろおぼえだが、こんな感じだった。笑った。ほかのお客さんはあまり声を出して笑っていなかったが、私は笑わせてもらった。いやあ面白い。
 そのほか、私物が展示されていたり、自室が再現されていたり、料亭のセットがあって割り箸を取ると「ハズレ」と書いてあったりした。「かっこつけんな。かっこいいことやれ。」などという毛書が貼ってあったりもした。面白かった。なかなか面白かった。小規模な展示だったが、300円は安い。

 1時間半ぐらいか……かなり時間をかけてみっちり見てから、名古屋パルコを出た。そのまま朗読劇『本読ム夜』がある藤が丘に移動しようかと思ったのだが、なんだか疲れていたので腰を落ち着けられる場所を探した。煙草も吸いたかった。
 たしか地下鉄の駅からどこかの出口へ向かう途中に喫茶店があったような……と歩いていたら、「コーヒー200円」との看板を見つけた。『えらく安いな』と看板の出ていた角を曲がると、そこは階段だった。『この上なのか?』と階段を上ると、今度は公園のど真ん中に出た。美術館や動物園に喫茶店が内包されていることがあるが、そのような形で、公園の敷地内に組み込まれ営業している喫茶店だったらしい。
 中はファーストフードのようなシステムだった。カウンターで注文・支払い・受け取りをして、自分で席へトレイを運ぶ。私はジンジャーエールを受け取って席についた。煙草を吸い、ぽつねんと窓外の公園を眺めた。2〜3歳ぐらいの子供が母親に付き添われながら芝生を歩んでいるのが見えた。
 地下鉄の時間まで、私は席で例のボブ・グリーン『ホームカミング』を読んだ。数十ページ進んだあたりで、急に店の外でガラガラッと音がした。何事かと顔を上げると、店員が店のシャッターを下ろし始めていた。『もう閉店なのか? それにしては蛍の光も流れてこないし、誰も何も言ってこない。だいたい、繁華街のど真ん中・駅のすぐそばにあるお店がこんなまだ明るいうちに閉店するものか?』。まあいいや、と読書を続けていると、数分後、背後から「お客様すみません、閉店です」と声をかけられた。『そういうことは閉店5分前ぐらいに言ってくれ』と思いつつ荷をまとめ席を立ったが、入口の扉が開かなかった。観音開きの扉で、右手でノブを引いても開かない。右手で、左側のノブをひいたら開いた。……。『別に大事にされるほどの客じゃないことは自覚しているが、それにしたってもうちょっと人に優しく』と思った。店を出て入口を振り返ったが、閉店時間はどこにも書かれていなかった。

 地下鉄で藤が丘へ移動、下車した。先ほどの喫茶店を早く追い出されてしまったため、まだ時間は30分もある。夕食がわりにと、目に入ったコンビニで「たまごベーコンパン」125円を買った。
 座れる場所を求めてぶらつくと、藤が丘の駅から出たところに路上パフォーマーがいた。ひとりがギターとボーカル、もうひとりがカホンでリズムを刻んでいた。2人はとくにギャラリーの関心を集めては居なかった。ボーカルの声量が弱く、浸った表情で歌っていたためだと思う。路上には20人ほどの若者がいたが、たいていのは何かの待ち合わせのために居ただけのようだった。明確に歌へ関心を向けている者はいかなかった。
 私はガードレールに座り、パンを食べながらシンガーを見ていた。『この人たち、オリジナルよりスタンダードナンバーとか話題曲とかやった方がいいような気がするな』『路上ではオリジナルにこだわらない方が良いでのはないか。有名な演目の方が、人は足を止めてくれるだろう』とふと考えた。『ああ、私は何を偉そうにそんなことを思えるのか』とすかさず自分を反省したが、ともあれひとつ発見にはなった。『今池まつり』では、自作に限らずいろんなテキストを用意しておくといいかもしれない。
 そういえば、9月の『今池まつり』、10月の『TOKUZO』と、予定がまた決まってきた感じがある。夏は何度かフライヤー行脚をすることになるだろう。

 パンを食べ終え、開演時間も近づいてきたので『WEST DARTS CLUB』に向かった。私の5メートルばかり前を男性が歩いていた。男性は『WEST DARTS CLUB』のあるビルに入った。私も続いた。男性が先にエレベーターに入ったので『すいません乗ります!』と声をかけてちょっと待って頂いた。乗り込んで、お礼を述べた。

 日常朗読企画『本読ム夜』は、月1〜2回の連続シリーズ。朗読という点は一貫しているが、それぞのれ回で出演者や演目は大きく異なる。初回となるこの夜は『マルグリット・デュラスを読む』だった。
 奇妙な物語だった。森の中にいくつかの黒い塔がある。そのひとつに、婦人と少女が住んでいる。2人は血縁ではない。少女は爆撃機の飛来を察知することができた。婦人は爆撃を祈ることができた、ドイツ人を殺してしまえと。少女は死を恐れた。猫が居た。夜だった。……。うまく説明ができない。音楽などの演出も加えられ、ゆっくりヒタヒタと朗読された。上演時間は40分ぐらいだったと思う。
 終演後、会場は観客たちめいめいの雑談で賑わっていた。私はある男性に話しかけられ、感想を訊かれた。数秒言葉に詰まったが、私は正直に答えた。『少女と婦人が、何の冗談も元にせず、突然けたたましく笑い出しましたよね。そして少女がいきなり婦人を突き飛ばした。そして猫のところに駆けて行った。……なぜそうなるのかが理解できませんでした。私には、あっけに取られっ放しだったかもしれません』。男性は、その不自然さ・不条理さが戦時下の極限的な精神状態を表しているのではないかと答えた。私はそうだろうかと思った。男性は、デュラスの作品はト書きと台詞のみで構成されており、感情の説明が一切ないのだとも言った。私は、確かにこれは演じられること、読み解かれることを想定した物語だと思った。このテキストは、アレンジによって辻褄の合ったミステリーにもなろうし、破綻した奇譚にもなろうし、一風変わった喜劇にもなる、そんな気がした。
 『本読ム夜』総企画の杜川リンタロウさんに挨拶し、会場を出た。地下鉄の車内でも私は考え続けた。あの物語はどういうことなのか。特に気になったのは、作者は戦争をあのような取り扱い方で済ませてよかったのかということだった。男性の言葉通り「極限状態」の異常さがメインであったのなら、何も戦争を引き合いに出す必要はない。むしろ、戦時下を舞台にすることで要らぬ政治性や先入観を巻き込んでしまうリスクばかり高まる。いかなる意図で時代を戦時下に、登場人物を奇妙な人格に設定したのか。なぜ塔に閉じ込めたのか。森にある黒い塔とは何なのか。わからない。ヨーロッパ人なら理解できるのだろうか。それとも、シュールさを狙い、もともと理解を絶した組み立てがされていた作品だったのか。考え込んだ。

   *

 帰りの電車はおそろしく混んでいた。私は席に座れたが、立っている女性の鞄が何度か腕に触れてきた。先頭車両だったせいかもしれないが、それほどに混んでいた。車中、私は黙々と『ホームカミング』を読み進めた。
 電車から降り、自転車にまたがって家路を進んだ。しかし5分の4ぐらい来た所で、私は道を変えた。このまま家に帰るより読書に没頭したい気分だった。近場にある、朝5時まで営業しているファミリーレストランに入った。23時ごろだった。

 ドリンクバーと小うどんを頼み、席に着いた。隣の席には若い女性が3人、なにやら旅行の計画を練っている様子だった。店内は混んでいた。どこからか「だれそれはキモい」とか「なにがしはヤバい」とか「いかにもなんたらだ」といった男女の会話も聞こえてきた。名古屋でさんざん今風の若者やファッションビルに面食らってきたあとだったので、多少気が塞いだ。しかし本を開くとすぐにどうでもよくなった。不思議なもので、無音より、好きな音楽が流れているより、テレビや雑談が流れている方が私は集中できる。

 『ホームカミング』は6部構成になっている。本書の成り立ちを示した「はじめに」と、多数の手紙を収録した「唾を吐きかけられた兵士たち」「唾を吐きかけられなかった兵士たち」「歓迎された兵士たち」「唾を吐きかけられるよりひどいこと」「その他」。
 短いものを選んで引用、紹介する(ただし、これだけで判断してもらっては困る。本来なら一冊丸ごとお見せしたいところだ)──

P.63
ウォルター・ハワード(イリノイ州ロゼル)
 唾を吐きかけられただけでなく、僕はののしられ、卵をぶつけられ、やじり飛ばされたよ。汚い字で申し訳ない。いま、二歳になる息子の子守りをしてるところなんだ。

P.122
ミセス・アルバート・フォースター(オハイオ州セント・ルイヴィル)
 私の息子は陸軍の帰還兵です。ナムには三十ヵ月いました。ええ、たしかに、息子と、いっしょにいたほかの何人かの兵士たちは、オハイオ州のポート・コロンバス空港で唾を吐きかけられましたよ。でもあれはヒッピーじゃなくて、年配の立派なコロンバスの人間でした。息子は、ナムで怪我をして、少し不潔になって故郷にもどってくるところでした。あのころ軍服を着るのは危険なことでした。でも、わたしは、息子のことを誇りに思っています。あの子は麻薬も煙草もいっさい吸わなかった。あの子は帰還兵として正当な扱いを受けなかったのに、文句ひとついわなかった。息子は、名誉負傷章と青銅星章をもっています。

P.127
ハル・ポールク(サウスカロライナ州コロンビア)
 私は、一九六七年、七〇年、七三年の三度、ヴェトナムから帰国している。入国地はいずれもトラヴィス空軍基地で、そのあと軍服を着たまま飛行機に乗って、サンフランシスコからフロリダまで行った。
 私は、そのいずれの機会にも唾を吐きかきかけられたことはないし、どのようなかたちであれ、自分に向かって敵意をむきだしにされたことはない。私の友人たちもまた、一般の市民からいかなる種類の不愉快な反応を示されたこともない。

P.131
ゴードン・L・ウェッブ博士(ルイジアナ州シュリーヴポート)
 私はヴェトナム帰還兵です。アメリカ空軍に一九七一年から七五年まで所属していました。しかし私は、兵士が唾を吐きかけられるのを見たことも、そういう話を本人の口から直接聞いたこともありません。
 もちろん、敵意をむき出しにされたことはありました。不愉快なことをいわれたこともありました。
 当時は多くの人間が、軍服を着ている人間に向かって戦争反対の意思表示をしたがっているように見受けられたことも事実です。私たちに責任があるかのようにいわれることもたびたびありました。しかし、唾を吐きかけられたことは一度もありません。

P.156
デイヴ・スペリー(イリノイ州バテイヴィア)
 私は一九七〇年の十月、軍服を着て帰国しましたが、問題らしい問題にはいっさい遭遇しませんでした。同じ年、私は特別休暇でヴェトナムを発ち、その三十六時間後に、ジャングル用の戦闘服を着たまま(真っ黒に日焼けして)オヘア空港のなかを歩いたこともありましたが、ヒッピー風の格好をした人間も含めて、私がまわりの人間から受けた反応は、どちらかといえば、紅海を渡るモーゼが受けた反応に近いものでした。彼らはみな私の姿を見ると、私をやり過ごすために黙って道をあけたのです。

P.227
ボブ・ボートン(オハイオ州フレデリックタウン)
 これは本当の話で、「ヒッピー」も登場する。
 あれは、フィラデルフィアの近くにある軍の病院で、ヴェトナムで受けた傷の治療を受けているころのことだった。僕が病院から家に帰ろうとしてバスを待っていると、年配の女がひとり僕に近づいてきた。そして僕の顔を真正面から見据えると、彼女は僕のことを、国に雇われた殺し屋呼ばわりしたんだ。
 だが、さっきいったように、僕の話には「ヒッピー」が関係してる。僕に罵声を浴びせた女が立ち去ると、ベルボトムのズボンをはいて、首飾りと平和のシンボルを身につけた若い女が僕に近づいてきたんだ。そして彼女は、僕の目を見つめて、ヴェトナム帰還兵がこんな目にあって本当に気の毒だと思ってるといってくれたんだ。
 僕は、彼女の名前を訊くどころか、礼をいうことさえできなかった。だが、彼女の顔とあの思いやりのある言葉はいまも僕の脳裏に焼きついている。

P.244
ベン・リンボー(イリノイ州バテイヴィア)
 空港で自分を待ち受けている事態に対して心の準備を整えながら、僕は帰りの飛行機のなかで、自分が帰国時に、拍手と嘲笑のどちらも望んでいないことに気がついていました。そして現実にも、僕は帰国したときに、そのどちらも受けませんでした。ただ、オヘア空港に向かう飛行機のなかで、僕の隣に坐った美しい看護婦さんが、僕に、「ありがとう。無事に帰ってこられてよかったですね」といってくれました。
 その後、イリノイ州のノーマルにあるイリノイ州立大学のキャンパスで、戦争反対を唱えていた女性の大道芸人が、突然僕と友達の前に現れて、「今この瞬間にも、人間同士がヴェトナムで戦い、死んでいってるのを君は知ってるかい?」と絶叫したことがありました。僕が、「ああ、知ってるよ。そこから帰ってきたばかりだからね」と答えると、その女性がわっと涙を流して、僕に謝ったことをいまでも僕はよく覚えています。

P.287
ジェイムズ・W・ワーゲンバック(コロラド州ゴールデン)
 右腕をなくして一九六九年にヴェトナムから帰ってきたとき、僕は二度見知らぬ他人に声をかけられた。一度はデンヴァー大学のキャンパスで、もう一度はコロラド大学のキャンパスでだった。
 どっちのときも僕は軍服を着ていて、近づいてきた学生タイプの男たちに、「どこで腕をなくしたんだい? ヴェトナムかい?」と訊かれた。
 僕は、そうだ、と答えた。
 そしてその答えは、「ざまあみろ。罰当たりめ」だった。

P.294
ドン・ウッドワード(アラバマ州バーミンガム)
 ヴェトナムに一年間いたあと、一九七〇年の五月、僕はカリフォルニアに帰ってきた。事前に、ジャングル・ブーツや戦闘服や勲章は身につけないほうがいいといわれていたので、僕はそのとおりにしたし、トーキョー経由でアメリカに帰ってきて、空軍基地に飛行機が着いたのも幸運だったと思う。
 しかしその三日後、あるバーに入って、この国の若い女の子に──それは僕が帰ってきて最初に目にした女の子だった──一杯おごらせてもらえないかというと、僕はその子に、「ふざけんじゃないよ、この赤ん坊殺し」といわれた。どうして僕がヴェトナム帰りだということが彼女にわかったのか、僕にはいまでもわからない。
 僕は誰も殺しちゃいない。僕は事務局で働いていたにすぎない。

P.360
デイヴ・ローガン(オハイオ州ニュー・マーシュフィールド)
 三カ月前、俺はいまの新しい部署に異動を命じられた。そして上司に、自分がヴェトナム帰還兵だという話をすると、奴はこういったよ。「へえ、ぜんぜんわからなかったな。君は外見だってごく普通に見えるし、行動にも異常なところなんかないじゃないか」
 こんなのはほんの序の口にすぎない。


──ファミレスという、自分が冷静に律される空間でなければ、私は読みながら涙が止まらなかっただろうと思う。

 はす向かいのテーブルから、女性の話し声が聞こえた。「法律とかわかんないしさあ」。私は顔を上げ、声に耳を向けた。「税金とかもよくわかんない」。堂々と笑顔で何を言ってるんだ、自分の恥をどうしてそう嬉しそうに話せるんだ?「だいたい国会とか意味もわかんないし」。私は『ネットで調べろよ』と思った。怒っていたと思う。だが、何も言わなかったし何もしなかった。ただ何かが嫌になった。
 『ホームカミング』を読み終えたのは3時半ごろだったと思う。しばらくぼっとしてから、持っていた何冊かの本にとりかかってみたが、どれもうまく頭に入ってこなかった。ネットで見つけ、いつか読もうと携帯していた文を開いてみたが、どこにでもある詰まらないグチにしか感じられず入り込めなかった。突然ぐったりと眠気がしてきた。閉店までまだ時間はあったが、私は荷物をまとめ店を出た。家に帰ろうと思った。
 私が席を立つすこし前、若い母親が2〜3歳の子供を連れ、店内のガチャガチャにコインを入れているのが席から見えた。『何でこんな時間のこんな場所にそんな子供が居るんだ? 寝ろよ!?』と苛立ったが、他人のことは言えない。母親は出てきたカプセルを手に取り、開けようとしたが硬くて開かないようだった。私が助力しようか無視すべきか悩んでいると、店員の婦人が駆け寄り、数度かかってカプセルを開いた。母親は中身を子供に与え、無言で店を出て行った。

 帰宅後、私はシャワーを浴び、この文章のメモを少し書いた。そして眠った。とくに夢は見なかった。
posted by 若原光彦 at 01:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | 近況