2004年11月16日

書籍『文学の輪郭』

 大変興味深く読んだ。やや難しい先入観を持って読み始めたが、作者の言わんとすることがすんなりと感覚的に理解しつつ読み進められた。それは私が詩作者だからだろう。「詩」が「文学」の一部かどうかはともかくとして、言葉を用いる作法として逃れられない問題があることなど、内容には共通性が多かった。文学の構造を検証するという作業は、詩のそれにも対応するものだった。個人的に、特に次の文章にひきつけられた──

 私小説の方法のひとつの特性は、「抽象しない」ということであるだろう。私たちがふつう「個」と「普遍」の最もたやすい架橋としてえらぶのは抽象化、概念化、ということである。時にはそれが「思想」や「宗教」で代行される、ということが、その間の事情をよりいっそうよく物語ってくれる。私たちにとって、個→(抽象化)→普遍→還元(個別化)→個(私)、というプロセスは、現実のなかでの、あらゆる「他」とのかかわりあいにおいて不可欠なのであり、それは最初の「個」がよしんば虚構世界に仮定された「個」であっても、少しも事情は変わらない。


──私は私小説的な詩(極度に個人的な詩・ポエム)には関心が薄い。また自分でも書くことはない。それは私が「個」よりも「概念や普遍」に軸足を置いていることを意味する。薄々わかってはいたのだが、この文章を読みクリアーに捉えることが出来た。

   *

 しかし詩と文学のその共通性は、あとがきである『文庫版あとがき 《ロマン革命》序説』にて切り落とされる。
 このあとがきは、本書が上梓された8年後に、文庫版のために書き足されたもので、中島氏が本書の評論の意味、8年前と現在を語る内容になっている。ここで氏はこう述べる──

いまさら「文学は有効であるか」と問うことそのものが、すでに自家撞着をはらんでいる。有効であればもはや文学ではないのだ。その意味では、「面白い」文学、というのはすでに語の矛盾であり、文学の範囲における面白さとは、たとえばロブ=グリエやビュトールのような、「知的趣向」の興味深さ、あるいは私小説におけるような、作家個人と結びついたざんげへの興味、あるいは知的冒険心や、またそこに提出されるテーゼへの共感、でしかありえない。おわかりのとおり、これらのものは、その本を文学愛好者が「面白い」といって読む理由としては充分だけれども、げんみつな意味での「面白いお話」とはかなり異なっていることは明らかである。ねえ、それでセーラはどうなったの? 幸せになったの? 昨日のつづきをお話して、というような「面白さ」からは、ずいぶんかけはなれていることは認めざるをえないのだ。


──氏は「文学」よりも「小説」、ストイックな「知的快感」よりもダイナミックな「お話(物語)」やその「力」を訴える。言うまでもなく、詩には「物語」性は薄く、「知的快感」の方が強い。また詩は小説よりも、イメージや言葉に大きく囚われる作法だ。「物語」が持つ対立や答、希望といったものも詩にはない。あとがきを読みながら、私は『「詩って難しい」という話は「文学って難しい」という話とポイントが似ているかもしれない』と感じた。

 終盤、中島氏は(本書が書かれなくてもよかったわけではない、と断ったうえで)「文学」という「輪郭」の不自由さを指摘する。文学とは何か、どこへ行くのか、そんなことはどうでもよく、現代の物語(小説)は思い思いに氾濫している。
 私は、やはり詩のことを考えてしまった。『詩が氾濫していないのは、詩が詩という輪郭の不自由さを背負い、その中でしか詩は詩たれない為だろうか。小説も文学も絵本も「物語」であるように、詩も歌詞もCMも漫才もゲームも「○○」であると認知されたとき、詩は社会に対して有用なものとして氾濫できるのだろうか』

 正直、ガラにもないことを考えてしまった。

   ◆

書名:文学の輪郭
著者:中島梓(なかじまあずさ)
発行:株式会社講談社(講談社文庫)
昭和60年10月15日第1刷
ISBN4-06-183601-3 C0195(定価320円)
posted by 若原光彦 at 23:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍
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