私小説の方法のひとつの特性は、「抽象しない」ということであるだろう。私たちがふつう「個」と「普遍」の最もたやすい架橋としてえらぶのは抽象化、概念化、ということである。時にはそれが「思想」や「宗教」で代行される、ということが、その間の事情をよりいっそうよく物語ってくれる。私たちにとって、個→(抽象化)→普遍→還元(個別化)→個(私)、というプロセスは、現実のなかでの、あらゆる「他」とのかかわりあいにおいて不可欠なのであり、それは最初の「個」がよしんば虚構世界に仮定された「個」であっても、少しも事情は変わらない。
──私は私小説的な詩(極度に個人的な詩・ポエム)には関心が薄い。また自分でも書くことはない。それは私が「個」よりも「概念や普遍」に軸足を置いていることを意味する。薄々わかってはいたのだが、この文章を読みクリアーに捉えることが出来た。
*
しかし詩と文学のその共通性は、あとがきである『文庫版あとがき 《ロマン革命》序説』にて切り落とされる。
このあとがきは、本書が上梓された8年後に、文庫版のために書き足されたもので、中島氏が本書の評論の意味、8年前と現在を語る内容になっている。ここで氏はこう述べる──
いまさら「文学は有効であるか」と問うことそのものが、すでに自家撞着をはらんでいる。有効であればもはや文学ではないのだ。その意味では、「面白い」文学、というのはすでに語の矛盾であり、文学の範囲における面白さとは、たとえばロブ=グリエやビュトールのような、「知的趣向」の興味深さ、あるいは私小説におけるような、作家個人と結びついたざんげへの興味、あるいは知的冒険心や、またそこに提出されるテーゼへの共感、でしかありえない。おわかりのとおり、これらのものは、その本を文学愛好者が「面白い」といって読む理由としては充分だけれども、げんみつな意味での「面白いお話」とはかなり異なっていることは明らかである。ねえ、それでセーラはどうなったの? 幸せになったの? 昨日のつづきをお話して、というような「面白さ」からは、ずいぶんかけはなれていることは認めざるをえないのだ。
──氏は「文学」よりも「小説」、ストイックな「知的快感」よりもダイナミックな「お話(物語)」やその「力」を訴える。言うまでもなく、詩には「物語」性は薄く、「知的快感」の方が強い。また詩は小説よりも、イメージや言葉に大きく囚われる作法だ。「物語」が持つ対立や答、希望といったものも詩にはない。あとがきを読みながら、私は『「詩って難しい」という話は「文学って難しい」という話とポイントが似ているかもしれない』と感じた。
終盤、中島氏は(本書が書かれなくてもよかったわけではない、と断ったうえで)「文学」という「輪郭」の不自由さを指摘する。文学とは何か、どこへ行くのか、そんなことはどうでもよく、現代の物語(小説)は思い思いに氾濫している。
私は、やはり詩のことを考えてしまった。『詩が氾濫していないのは、詩が詩という輪郭の不自由さを背負い、その中でしか詩は詩たれない為だろうか。小説も文学も絵本も「物語」であるように、詩も歌詞もCMも漫才もゲームも「○○」であると認知されたとき、詩は社会に対して有用なものとして氾濫できるのだろうか』
正直、ガラにもないことを考えてしまった。
◆
書名:文学の輪郭
著者:中島梓(なかじまあずさ)
発行:株式会社講談社(講談社文庫)
昭和60年10月15日第1刷
ISBN4-06-183601-3 C0195(定価320円)