ずいぶんと前に古本屋で買った本です。5分の1ぐらいまで読んで、しばらく積んでいたのですが(笑)、先月上旬、読む本がなくなってしまっい、ふと思い出して読書再開しました。
読み始めたら、とても面白いんです、この本。舞台は大正時代、著者の10代後半〜20代前半をつづった自伝です。物語は北海道の開拓村から始まります。
とにかく文章がうまい。本当にこの筆者はこんな些細なことまで記憶してるんだろうかと疑ってしまいます。想像力で補ったにしても緻密すぎる。例えば、汽車の駅での待合風景──
私はある少女の白い頬を愛し、ある少女の黒い髪を愛し、ある少女の形のいい脛に執着した。そして私は、彼女らを盗み見ることを抑制することができずある少女の黒い袴の裾からのぞいている白い足袋を見ると胸がどきどきし、またある少女の目が、ほとんど意識して私の方に時々じっと注がれるのを知った。私はその少女の目を毎日期待し、その少女の後姿を目で追った。またある少女は時々、極さり気ない形ではあるが、しかしきまって一日に一度は、その仲間の中にいて、チラと私の方を眺めた。しかし、私がその頬と目なざしに大変心を引かれた少女と、私がその靴下に包まれたすらりとした脚に何とも言えない魅力を感じた少女は私に無関心のようであって、それが私の毎日を不幸にした。私は、彼女等の全体とは言わないまでも、その中の、魅力ある四五人の少女たちに同時に愛着を感じていた。夕方の帰りの汽車は一時間おきにあるので、帰りには私は、今日はどの少女と一緒になるか、と夢想したり、またある少女を心待ちにして一汽車遅らせたりした。中学生のときは、彼女らが三四人群れてくるのと一人ですれちがうことがあると、私はほとんど必ず顔が真赤になるので大変当惑した。
──こんな文章がどんどん続きます。全編にこんな調子です。いちいち心の動きが説明されるのです。上司が大人物なのでその立派さに感服してしまう自分に呆れ、京都に行けば宿にぼったくられるかもしれないと腹を立て、同人になれば「おれは門下に下ったのか」と苛立ち、詩集がほめられたとなればうかうか喜び、知人Aに気を使い知人Bにそっけなく態度してしまった自分にあとで青ざめる。人間が一喜一憂しながら日々を生きていた感じが伝わってきます。
自虐的、というのとは違うのですよね。客観的というのに近いけれど、すこしだけ愛着や同情心みたいなものが加味されている。自伝にありがちな、ねちねちしたところがないんです。文章がとにかくうまいです。つらつらと心理描写が続くのだけれど、退屈しない。告白を読まされているような重さもない。淡々と、まじめに、心の動きとエピソードが書かれていく。とても面白い本でした。
筆調については、時代のせいもあるのかもしれませんね。現代ではもうこんなトーンで自伝を書く人はいないでしょう。仮に書いてみても、その自伝からは現代らしい空気や人間の生きた様子は感じられないでしょう。もっともなことではあるのですが、惜しい気もします。
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なお、この物語の終盤では主人公は東京に出てきます。小野十三郎、梶井基次郎、草野晋平、三好達治などの名前が(当時生きて接したり聞き及んだりした人間として)出てきます。特に梶井基次郎の印象、彼がイメージをとらえた瞬間のエピソードには新鮮な感動を覚えました。詩が生まれる状況、詩がとらえられた瞬間の情景を文章に表すのはむずかしいことです。それが終盤になって幾つも出てくる。
いや、いい本です。私が詩に興味のあるひとだから、そりゃ幾分ひいき目に評価してしまっているでしょうけれど。
ところで、読み終わってから奥付を見たのですが。41刷って凄いですね。そんなにみんなが読むような本じゃないと思うんだけど。いや、いい本ですけど。
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書名:若い詩人の肖像
著者:伊藤整(いとうせい)
発行:新潮社(新潮社文庫)
昭和33年12月20日発行
平成元年3月15日41刷
ISBN4-10-108806-3 C0193
*古本でカバーがないため、定価は不明。