つらつらと近況でも書いてみようとおもう。「読んだ本の感想を書かにゃな」「新しいデジカメを買ったんでそのことも触れときたいな」「12-15(水)の『詩の夕べ』に行ったこと書かにゃな」といった比較的大きくてわかりやすいエピソードは今は置いて。つらつらと近況を書いてみようとおもう。
相変わらずのヘビースモーカーになってる。なんとなく『Marlboro』を吸ってみたが思ったより弱腰の煙草でがっかりした。アメリカンな銘柄、という先入観があったから、それなりに強いインパクトがあるだろうと思ったのに。
今は『Seven Stars』『MILD SEVEN FK』を吸ってみているが、前者はいかにも煙草という煙草、後者は火を点け吸うより加えてた方が和むというこれまた微妙な感じ。吸いきったら『HOPE』『Peace』に戻ろう。『Peaceアコースティック』もちょっと懐かしい。味は忘れたが。
先月下旬からかな、数回「深夜のファミレス、ドリンクバーで徹夜」を実行した。大塚英志やドリアン助川を読んだ。そのせいもあって、詩のネタ自体はそこそこ溜まっている。さらに、推敲途中やほぼ完成という作品も数作ある。
これらを整えなければ、と思うのだが、その気にならない。自分で自分の底が見えてしまっている。なんというか、事象をネタに使って詩で落としている、という行為に底を見ている。悪い詩ではない、波長の合う人には面白いはずだ、ということも分かりつつ、波長の合わない人には「小うまくまとめやがって。ええかっこしいが」と見られるという事が分かってしまって、書く気にならない。
もう筋道は見えてる、いつでも書ける、というのも原因かもしれない。ネタを活かす気にならない。ストックを消化する、そんな作戦的な創作ではなく、もっと偶発的で衝動的な書き方が今の私には必要な気がする。
あるいは「詩」から離れるべきなのかもしれない。短歌や俳句、四行詩や定型詩などに戻ってみるといいのかもしれない。
ときどき思い出すのだけれど。以前古本屋で立ち読みした本にこんなシーンがあった。
中学生ぐらいの少女が、大人の女性にわめく。「面白くないの。ついこの間までドキドキできてた本やドラマや映画なんかが、なにも変わってないのに詰まらないの」そして「こんな都合のいい話ない、こんなの嘘だ、って思えて入っていけない」と嘆く。自分の心が死んでしまったような気がするという。
それを聞いた女性は、静かに少女をさとす。「そういう時ってあるのよ」
時々、このシーンを思い出す。そしてあの本を買っておけば良かったかな、と思ったりする。その本は思春期の心理のQ&Aをマンガにしたような本だったので、そのシーン以外には価値を感じなかったのだけれど。あのシーンのためだけにでも、買っておけば良かったかもしれない、なんて。
そのシーンを見た時『マンガの中の人物がマンガが楽しめないってヒネてら』『きっとこの作者にもそういう体験があったんだろうな』と美しい風景を見たような気がした。だけれど、その時は、その本は買わず、シーンだけ記憶に留めておくのが正しいと思った。そして買わなかった。
今になって『あの本がもう一度見てみたい』とか思ったりする。何を求めてということではないが。思うだけでいいと思うが。
多分いま私は休むべきじゃないんだろう。(と言っても、予定を入れて忙しくあちこちへ動くべき、ということではなく)ひとりで単独作業に熱中すべきなんだろう。サイトのリニューアルでもすればいいのかもしれない。
詩集を作る、ということを、最近現実的に考えるようになった。最近になって『自分はこうだからこういうものを書いてきたんだな』という仕組みが見えてしまっている(それが「底」や「つまらなさ」を自分に見てしまっているという事でもあるんだろうが)。一冊にまとめれば区切りがつくかもしれない。
なんてそんな、いっときの気分で詩集をモヤモヤのはけ口みたいにしちゃいけないだろう、と冷静になってもいるが。忙しく何かをすべきだという感じはする。
2004年12月18日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/1142316
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。
この記事へのトラックバック
http://blog.sakura.ne.jp/tb/1142316
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。
この記事へのトラックバック