2005年05月30日

書籍『文芸的な、余りに文芸的な』

 さて、今度はまったく別種の本です。今月11日『詩のあるからだ』が終わってからファミレスで読みました。
 芥川龍之介です。『青空文庫』にあるので無料で読めます(『文芸的な、余りに文芸的な』『続文芸的な、余りに文芸的な』)。

   *

 私が読んだ文庫本には、晩年の評論(?)が五編収録されています。表題作『文芸的な〜』『続〜』とその『補遺』、『芸術その他』『小説作法十則』というアフォリズムみたいな文章、大正八年と九年の文芸時評が納められています。

 時評的・時代的な話は(私に日本文学の知識がないので)「ただ読んだだけ」でしたが、汎文芸論的なところもある『文芸的な〜』『続〜』『補遺』『芸術その他』『小説作法十則』はかなり面白かったです。芥川龍之介っていうと、陰鬱とした天才肌の気難しい人間というイメージだったのですが、面白い人です、この人。

 勿論(もちろん)人間は自然の与えた能力上の制限を越える事は出来ぬ。そうかと云って怠けていれば、その制限の所在さえ知らずにしまう。だから皆ゲエテになる気で、精進する事が必要なのだ。そんな事をきまり悪がっていては、何年たってもゲエテの家の馭者(ぎょしゃ)にだってなれはせぬ。尤も(もっとも)これからゲエテになりますと吹聴して歩く必要はないが。

(芸術その他)


七 語彙

「夜明け」と云う意味の「平明」はいつか「手のこまない」と云う意味に変り、「死んだ父」と云う意味の「先人」はいつか「古人」と云う意味に変っている。僕自身も「姿」とか「形」とか云う意味に「ものごし」と云う言葉を使い、すさまじい火災の形容に「大紅蓮(だいぐれん)」と云う言葉を使った。僕等の語彙はこの通りかなり混乱を生じている。「随一人(ずいいちにん)」と云う言葉などは誰も「第一人」と云う意味に使わないものはない。が、誰も皆間違ってしまえば、勿論間違いは消滅するのである。したがってこの混乱を救う為には、──一人残らず間違ってしまえ。

(続文芸的な、余りに文芸的な)


 ファミレスで声をあげて笑いました。こんな小難しそうな本で笑えるとは思いませんでした、なんだいこいつー。面白い奴め、長生きしてくれりゃ良かったのに。

   *

 それはともかく。私がこの本を買ったのは「ずっこけ」が目当てではありません。そんなのは上記の二箇所ぐらいです。あとの大部分は小難しい感覚論です。
 先に紹介した『青空文庫』収録テキストをチラッとでも見てもらうとわかるのですが……芥川龍之介は意外にも「詩的」ということを唱えています。たしかに『河童』も『或る阿呆の一生』もふんだんに詩的な作品でしたが、芥川は「小説の人」というイメージでしたから、これは正直意外でした。で、読んでみたくなったわけです。

 私は文学史に詳しいわけではないのでよくわかりませんが、この時期芥川は谷崎潤一郎らと「話らしい話のない小説」や「詩的な小説」について論争していたようです。

十二 詩的精神

 僕は谷崎潤一郎氏に会い、僕の駁論(ばくろん)を述べた時、「では君の詩的精神とは何を指すのか?」と云う質問を受けた。僕の詩的精神とは最も広い意味の抒情詩である。僕は勿論こう云う返事をした。すると谷崎氏は「そう云うものならば何にでもあるじゃないか?」と言った。僕はその時も述べた通り、何にでもあることは否定しない。「マダム・ボヴァリイ」も「ハムレット」も「神曲」も「カリヴァアの旅行記」も悉(ことごと)く詩的精神の産物である。どう云う思想も文芸上の作品の中に盛られる以上、必ずこの詩的精神の浄火(じょうか)を通って来なければならぬ。僕の言うのはその浄火をいかに燃え立たせるかと云うことである。それは或(あるい)は半(なか)ば以上、天賦の才能によるものかも知れない。いや、精進の力などは存外(ぞんがい)効(こう)のないものであろう。しかしその浄火の熱の高低は直ちに或作品の価値の高低を定めるのである。
 世界は不朽の傑作にうんざりするほど充満している。が、或作家の死んだ後(のち)、三十年の月日を経てもなお僕等の読むに足る十篇の短篇を残したものは大家と呼んでも差支えない。たとい五篇を残したとしても、名家の列には入るであろう。最後に三篇を残したとすれば、それでもとにかく一作家である。この一作家になることさえ決して容易に出来るものではない。僕はこれもまた横文字の雑誌に「短篇などは二三日のうちに書いてしまうものである」と云うウエルズの言葉を発見した。二三日は暫く問わず、締め切り日を前に控えた以上、誰でも一日のうちに書かないものはない。しかしいつも二三日のうちに書いてしまうと断言するのはウエルズのウエルズたる所以(ゆえん)である。従って彼はろくな短篇を書かない。

(文芸的な、余りに文芸的な)


 上記、後半になるに従って話が脱線してきてるような気もしますが、言っている事はわかります。「詩的は何にでもあるだろうが、その程度を問うている」わけです。芥川の言う「話のらしい話のない小説」もこれに通じるものなのでしょう。
 たとえば、吉本ばなな。ストーリーだけで小説が出来ているわけではなくて、題材の選び方や配置、描写の加減やリズム、タイミングなどが「話は淡くても、小説として完成されたもの」を作れる。現代ではわざわざ説明する必要すらないことですが、芥川の時代にはそれを唱えたり挑んだりするシーンがあったのでしょうか。

「詩的精神」だとか「話のらしい話のない小説」だとか、感覚論的な夢みたいなことを言っている芥川ですが、その一方で「小説家はジャーナリスト・歴史家ないし伝記作家だ」「小説は短命だ。すべての小説はその時代の匂いや賞味期限内でしか読まれない」また「小説家には処世術が必要だ」とも言っています。考えすぎなぐらい現実的です。

   *

 この本を読もうと思ったのは「芥川と詩がつながらない」からでしたが、読後に感じたのは「芥川龍之介の晩年ってこんなに詩人に近かったのか」ということでした。詩人の感覚というか……徹底気質とか創作論とか……あると思うのですが、この本を読んで、それものに近いものを感じました。
 ただ、芥川自身の変化や葛藤から本書の文章が書かれているようにも感じました。文芸や小説について本質的なところまで踏み込まなきゃならないほど、切羽詰っていたのではないか、と。本書の文章は後輩に宛てたものではなく、自分自身をアジるために書かれているような。……読んでいる側も触発されてきて面白くはあるのですが、ふと冷めると、切なさや虚しさも感じました。

   ◆

書名:文芸的な、余りに文芸的な
著者:芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)
発行:株式会社講談社
レーベル:講談社文庫
昭和47年9月15日 第1刷発行
昭和48年5月28日 第3刷発行
ISBN不明(120円)
posted by 若原光彦 at 17:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍
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