2005年06月12日

なに屋あらわる

 ひさびさに超駄文でも。……ちなみに、今これを書いている私のパソコンでは「ちょうだぶん」は「超駄文」と一発で変換される。「超駄文」をユーザー辞書に登録してあるのだ。そんな人間は世界でも私一人だろう。少しだけ優越感だが少しだけ孤独だ。

   *

 先日、本を読んでいて「最近人になって教えられたが」という文章に出会い仰天した。何だこの作者は。妖怪人間か。それも大願成就して人間になったばかりなのか。よく見るとなんのことはなく「最近になって人から教えられたが」という部分を読み間違えただけだった。ただの間抜けである。

 さておき話は変わる。よく照れる人のことを俗に「恥ずかしがり屋」と言う。そこで私はふと思った。『屋って何だ』。「恥ずかしがり矢」ならまだわかる、矢が恥ずかしがっているのだ。「恥ずかしがり夜」もわからないでもない、恥ずかしがりの夜だろう。では「屋」が「恥ずかしがり」とは何ぞや。いずくんぞや。
 よくよく考えてみると、人物の特定の傾向を指す日本語というのは変なものばかりだ。涙がちである人のことは「泣き虫」。いきなり虫よばわりである。これがすぐ怒る人のことになると「怒りん坊」で「坊主」になる。敗者は「負け犬」。多面的な対応は「八方美人」、助平の変質者は「出歯亀」。
 これら全ての性質を備えた人物を省略して表現するとこういうことになる──

「ほらあの人って虫でいてけっこう坊主だから。そもそも犬が美人で根が亀なのがいけないのよね」

──何だかわからないが健康には悪そうである。ていうか人じゃない。

 他にも面白い言葉はないだろうか。たとえば英語では「のどぼとけ」のことを「アダムの林檎(the Adam's apple)」と言う。この感じで身体を表現していくと──

「林檎からソラマメにかけてが慢性的に病弱、餃子とパン生地にも深刻な被害」

──という作物概況のような状況になってしまうのではないか。つくづく、感じなどで物を言うべきでないと痛感した次第です。
 などとあれこれ思い巡らしていて、ふと今の自分に最適な単語を発見した。「馬鹿」である。嫌だ、馬だか鹿だかわからないのは嫌だ。私も早く人間になりたいと思う。

   *

 と……宮沢章夫氏の『青空の方法』(朝日文庫)を読んでいたので書く文章がすべからくこんな調子だ。なあに、しばらくすれば直る。いつものことですたい。
posted by 若原光彦 at 08:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 超駄文
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