……ってぎゃあ。やめましょうそういうブラックな笑いは。自分で書いてて自分で想像して自分でおののいてどうするんですか。……あ、いいなこれ。寓話になりそう。『怪談作家が、自分の考案した妖怪を恐れるようになってしまう話』とか。それってどんな妖怪なのか、具体的な記述は難しそうだな。
さておき。最近読んだ本の紹介です。「最近」とは言っても、前回の『文藝的な、余りに文藝的な』の直後からなので、ここ二ヶ月分ぐらいです。量が多いので要点だけ、ざっと簡単に。
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『詩全体〜しぜんたい〜』『詩合わせ』尾崎淑久
知り合いが送って下さいました。以前、作者の方の朗読をお聞きしたことがあって。読んでみたかったんです。ありがとうございます。
1〜2ページの短い詩が多く読みやすいです。寓意的で熱っぽくて、面白い。「俺まで腐るじゃないか」と展開し「さてこれはみかんの話か人間の話か」と終わっていたり。サイダーが「冷たくしてくれ」「弾け飛んでやる」と言っていたり。冷蔵庫が「熱くなるな」「腐っちゃうよ」なんて説教していたり。面白い……着眼点が鋭いです。
荒っぽい部分やあざとい部分、暗い内容などもありますが、それらは欠点ではなく、真剣さとして作風の効果になっているようです。ストイックな作品ばかりです。
ネットやリーディングでは淡い詩が多く、叙情で構成されたそうした詩もいいですが……それらは読んでもショックを受けません。読後感もはっきりしません。この詩集のようなストイックでわかりやすい、それでいてズキッとくる詩って、世間一般にも受けると思います。私はけっこう面白かったです。
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『世界の中心で、愛をさけぶ』片山恭一
小説版です。古本屋でようやっと見つけまして。読みました。とあるサイトで「字が大きい・話が薄っぺらい・買って損した」といったことが書いてあったので期待はしてませんでした。
私は好きです、この小説。うん。冷めずに読めましたし、主人公の喪失感も感じました。読み終わったあとしばらく放心してました。けっこう入れ込んでしまったみたいです、私は。
たぶん、文章から私が頭にイメージしていった「アキ」や「主人公」や「祖父」に、私は愛着(好感?)を持ったのだと思います。文章には『老人だからって一人称を「わし」にするとは。安易だし非現実的だし好かん!』『こんな絵に描いたような純朴な喋り方の女子高校生は居ない!』などと思ったりもしたのですが、私が脳内で構築した雰囲気や物語には影響ありませんでした。
ひとつ、納得できたことがあります。この小説、読んでいると映画化したくなります。登場人物に声や顔をキャスティングしたくなる。会話の流れやシチュエーションを微調整したくなる。日常風景の小ネタを挟みたくなる。図書館のシーンを読めば『木漏れ日が欲しいから○○図書館のあそこがいいだろうな』と思い、海のシーンでは『彩度を上げられないかカメラマンに相談してみないと』と思う。なんでしょう、これは。
この小説は映画化され、TVドラマ化され、漫画化され……いろんなメディアで原作になりましたが、わかるような気がします。「料理してみたい」という気にさせられる小説でした。ベストセラーになっていなくても、私はそう考えたと思います。
読んで泣けるとも限りませんし、人にすすめようとかも思いませんが……いまふと開いて数行読んだだけでも微弱な喪失感がしました。私には「残った」のでしょうね、何か。
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『図鑑少年』大竹昭子
都会生活を舞台にした、エッセー集です。エッセーと言うよりコラムといった方がいいかもしれません。特に教訓や逸話が組み込まれているわけではないのですが、作者の視点や語りが冷徹なのでそう感じたのでしょう。
全24篇のエッセーで構成され、各篇の間にはモノクロ写真が収められています。この写真もまた、冷徹というか、突き放されたような感触です。ふつうカメラを構えると、ちょっとはユニークさを狙ってみたり感情移入を誘ってみたりするものですが、この本の写真は違います。風景がドン、と出てくるだけです。アーティスティックというのとも違う。普通の風景なのだけれど、妙にいちいち気迫がある。それでいて生気はない。ピントがびしーっと合っててクオリティが高い。圧倒される。なんだか、困る。でも眼が離せない。
優れた文章・綺麗なデザイン・上質なエピソードの良い本だとは思うのですが、どういった人に薦められるかと考えると頭をかかえます。読後感が良いわけでもないし、感動的なわけでもない。知識になるわけでもない。ただただ作者の冷静さに気おされる。
おそらく、意図的にそうしたつくりになっているのだと思います。とても抑制された上品な本なのですが、本棚に置いていても妙に威圧感を感じます。乏しい語彙で感嘆すると『すごいな……』となります。それしか言えない。
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『羊 羊 羊』マドモアゼル朱鷺
古本屋でなんとなく手に取り、開いてみてギョッとしたので買いました。なぜか105円でしたし。帯にはこうあります「世紀末だから読みたいハートフル童話風小説」。たしかに間違ってはいないのですが、間違ってるとも思います。でも「世紀末」って表現はドンピシャな気が……。
基本的には童話です。ただし、ハイティーン以上を想定して書かれた、ちょっとシュールな童話です。いや、シュールというのも違うかな……同じテーマでも、もっと童話っぽく子供向けに書くことはできると思うんですが……あえてサブカル的な雰囲気を選び、まっとうしている。
本文で使われているフォントは、漫画だったら呪文の声に使われるようなやつです。挿絵も、線が鋭角的でなんだか怖い。改行が多くインデントも場面によって変わるので、詩に慣れた人ならともかく、文章としては読み辛いです。
挿絵も題名も含めて、ブックデザインの異形さが際立った本です。本当に「サブカル的」「世紀末的」というのがぴったりな気がします。話が面白いかどうかは別にして、手に取れば読みたくなってしまう本だとは言えます。ヴィレッジ・バンガードに置かれてそうな。「かなり手間がかかってるんだろうな、すごいエネルギーだな」「こういう本が作れたら楽しいだろうな」「こういう本が好きで、集めてる人もいるんだろうな」そんな風に思わせる本でした。
内容うんぬんではなく、姿やコンセプトが楽しめた、という感じです。
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『ボールペンの話』シグマ工業株式会社研究部編
3月だったかな、古本市の百円コーナーで見つけた小冊子です。めちゃめちゃ褪色してます。黄色を通り越してほとんど薄茶色です。
昭和24年に、日本のボールペン開発メーカーが出したもののようです。ボールペンの長所や歴史(発明者や関連特許など)、ボールペンの仕組みやこれからの課題や展望が書かれています。「七、むすび」の最後の部分を引用してみましょう──
ボール・ペンには特許問題がある。今、日本で作られてゐるものが、米國特許に抵触することはないか。その参考にとも考へて此の原稿をまとめたわけでもある。前掲の図面についてよく研究されんことを望む。
ボール・ペンの逆流防止は是非解決したい。印度、南洋方面に輸出するものに就ては絶対的必要條件だと思ふ。
要するにボール・ペンの出現は世紀の驚異である。その将来には洋々たる希望をかけてよい。恐らくは近い将来にボール・ペンの黄金時代が来るであらう。その時期が早いか、遅れるかはメーカーの研究成果の如何にある。(昭和二十四年三月)了
*「触」「図」「輸」「対」「将」「来」等、原文では旧漢字。
──笑ってしまいました。「ボール・ペンの黄金時代」!!! ううむ、まるで革命的なことのように言われると面白くってしかたがない。コントみたいだ。
……笑ってしまいましたが。ボールペンの歴史を読むに、当初ボールペンは万年筆と対比されて考えられていたようです。万年筆は液漏れも起こしますし、するとポケットに入れて持ち歩けない。塗れた紙に書けば字が滲む。一方ボールペンは、安心して持ち歩けるし(当初は)インクの入れ替えもできた。当時安物でも350円以下だったとありますから、それなりに高価な筆記用具だったのでしょう。黄金時代を期待してもさして大袈裟ではなかったのかもしれません。
ボールペン開発者の方々に感謝しましょう。今日のボールペンがあるのは先人達のおかげです。笑ってすみません。でも面白いんだからしょうがない。ううむ。
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『ビーチ』アレックス・ガーランド(村井智之訳)
裏表紙に「HIGH-RISK」というロゴと「HRN-0001」というナンバーが印刷されてます。「ハイリスク」というペーパーバックレーベルの一冊め、ってことなんでしょうか。すごい名前だな……企業が自社製品に付けるには勇気の要る……。
それはともかく、本の紹介へ。二段組で457ページあります、厚手です。レオナルド・ディカプリオ主演で映画化された小説の日本語版です。
物語は1990年代前半。東南アジアを旅する若者リチャードは、タイで安宿に泊まります。しかし隣の部屋の男が自殺(?)する。同じ階の宿泊客たちと警察に事情聴取に呼ばれ、宿に帰ってみると自分の部屋のドアに手紙が届いている。中には「ビーチ」への地図が入っていた。「どこかに、リゾート化されていない『楽園』がある。ラグーンに囲まれ外界からは決して発見されない。そこには小さな共同体を作り、美しい暮らしをしている人々がいる。ただし選ばれたものしかそこには入れない」そんな噂は旅行者のなかで広まっていました。タイに飽き飽きしていたリチャードは、宿泊客のエチエンヌ、フランソワーズとともに地図の島へ向かいます。
映画では、主人公が狂っていったのはハッパのやり過ぎでした。物資補給のためリゾート地に戻るのも共同体のリーダーと一緒でした。映画では話の筋をわかりやすくするため、いろんな所をまとめてしまっていたようです。また、映画という表現上、心情的・幻覚的な描写を捨て、とにかく視覚的に構築されていたみたいです。私も見たのですが「ハリウッド映画だな」としか思いませんでした。
小説版ではかなり感じが違います。骨太の、それでいて繊細な話になっています。リチャードが狂いまた正気を取り戻したのは亡霊(地図を書き自殺した男)の存在が大きい。一緒に物資補給へ行ったのは、共同体の中でも孤独な立場にあった男性。物資補給は「楽園から現代社会に戻り、経済社会の淫らさに落胆して帰ってくる」嫌な仕事だと表現されています。そして、喜ぶだろうと思って買ってきた歯磨き粉は「なにこれ? こんな味だったっけ? 気持ち悪い。いらいないわ」と突っ返されます。
映画はただのサバイバルドラマでしたが、小説は「楽園での開放的な暮らし」と「楽園を維持する共同体の不自然さ」が綱引きしている、状況的な物語でした。文明社会から隔離されたところでは毎日気ままに楽しいかもしれないし、幻聴も聞こえるかもしれない。共同体から嫌われると居場所がなくなるが、楽園を守るためには脱走者は出せない。「ビーチ」は天国でもあり監獄でもある。誰もがいつか家に帰る筈なのに、この毎日が永遠に続くとも信じている。
面白い小説でした。テレビゲーム『ソニック』の話や、ベトナム戦争兵士のスラングが出てくるのがなんだかリアルでした。現代くさいというか、無邪気というか。やさぐれた気分とヒロイックな気分といろんなものがごたまぜに進んでいく。文章のテンポがよく、のめりこみ熱中して読みました。面白かったです。
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『文芸少年 Vol.01』新風舎
新風舎が新しく作った文芸誌です。ロゴの上に「詩とマンガと小説!」とある通りの本です。いわゆる文芸誌……『文芸春秋』とか『小説新潮』とかではなく、もっとライトな、くだけた、メディアミックスした内容でした。大槻ケンヂが好きな本について対談してたり、谷川俊太郎の詩に西原理恵子が絵をつけていたり。『ファミ通』のハガキ職人が小説を寄せていたり、漫才コンビがネタを小説化していたり。
アバンギャルドというかサブカル的というかネアカというか、なんか吹っきれた傾向で作られていました。小説もマンガも「あはは……」と苦笑して読んでそれで終わり、という。いわゆる純文学のような「重い・残る」ものはありません。娯楽的な文芸誌です。
いまどきの十代・二十代に向かって「どうだ! お前等が欲しがってるものってこういうんだろ?!」と狙っていってるような気持ち悪さもなくはないんですが、気楽に面白く読める本でした。
小説って、買ってみても読むごとに気が滅入ってくることがあります。テーマやコンセプトに惹かれたから読み始めてみたけど、文章やメッセージ性が気に入らない、とか。気楽に読めて素直に面白いものが欲しくなることがあります。エッセーとかではなくて、小説で。
そうした気分にはとてもマッチする本です。ある意味スクラップの寄せ集めみたいな本でもあるんですが、それは雑誌形態だからこそできることでもあるでしょう。「『文芸少年』に掲載されている作家さんの本を単行本で買うか?」と言われれば私は「ノー」です。でもこうしてまとめてザバッと読めるならまた読みたいですね。
新風舎らしい宣伝臭い記事も目につきますが……次号も買ってしまうかも知れません、これは。
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『丘真史詩集 ぼくは12歳』高史明・岡百合子編
1976年初版の詩集です。著者は12歳の故人。編者はその両親です。
闘病記のような本……家族や本人が「あの子は死んだ」とか「私は○○だ」といったことを売りにして出している本……は、私はあまり好きではありません。その内容・質に関わらず、敬遠してしまいます(浅はかなことだとは思うのですが)。
この本も、一見そうした種類の本に見えます。でも後書きを読むと、違うことがわかりました。本を売るために「自殺」とか「12歳」とかを前面に出しているわけではなく、「死も作品も何もかも含めてこの子のことを感じ取って欲しい」との願いから出版されたようです。そのため「あくまで作品で評価して」「ねえいい詩でしょ?」なんて甘ったれてはいません。「自殺した子が書き溜めていたものです」「12歳でした」と「それらを踏まえて読んでくれ」と態度で示しています。かなりの決意がなければそんな出版は出来ません。
後書きで編者も触れているように、詩作品としては未熟な部分や悦に入っている面も多いと思います。ただ、この本に収録された作品はもともと公開を想定して書かれてはいなかったのでしょうし……そう考えるとなかなかエネルギッシュで素朴で正直な、飾らないものだと、良く思えてもきます。
小学六年生が書いたにしては、おかしな詩もあります。主人公が大学生になっていたり、「おれたちのためいきは/すごくよごれている」なんて大人びた台詞があったり。でもその肩肘はって身の丈に合わない自分像を持て余し内部を煮えたぎらせている様子が、とてもリアルだとも思います。自分の少年時代はどうだっただろう、詩を書いていたらやはりこんな風に書いていたんじゃないか、そう思いました。
読んで楽しい詩作品は少ないです。他人の人生を垣間見るわけで……読書するということが嫌らしい行為のような気もしてきます。ある種、自分(読者)と作者との対決をさせられる本でもありました。
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『ショート・トリップ』森絵都
『毎日中学生新聞』というもの(毎日新聞の中学生ページみたいなものなんでしょうか?)に連載されていたショート・ショートを加筆・編集した本です。偶然図書館で見つけ最初の1〜2編を読み『これは私の寓話と通ずるものかもしれない』と思って借りました。
ショート・ショートというより、超短編といった方がいいかもしれません。オチのすっきりしない話も多いですし、状況設定の愉快さだけで押し切っている話もあります。台詞の掛け合いや鮮やかな展開で「あっ」と言わせてくれるわけではありません。低調に、でも独特に、シニカルなお話が続いているばかりです。
こう言ってはなんですが……「本を読んでいる」というより「ネットでどこかのサイトを見ている」そんな気がしました。各話が短く、作者が遊んでいる部分も多いのですらすらさっぱりと読めました。あまり寓話の参考にはなりませんでしたけど。
ときどき無性に『面白くなくてもいいから、苦にならない本が読みたい』と思うことがあります。最近のそんな気分によくマッチしました。……さて、図書館に返却しに行かないとな。
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以上です。長っが! 「ざっと簡単に」なんて言ってもやはりこうなるんだそうなんだ知らりょかわからりょかもうこれは運命なんだ宿命なんだカルマなんだ業なんだ……。
以前、今回と同じように「まとめて数冊書いた」ことがありましたが、あの時もやけに長くなってしまいました。『あの時は箇条書きにしたから長くなっちゃったのかな。今回は散文で書いてみよう』と思い、このようにした訳ですが……やはり散文のほうがいっそう長くなりましたね。そうじゃないかとは思ったのだけれど、やはりそうか……。
実は、ここに書いていない本があと4冊ほどあるのですが。それについてはおいおい書きたいと思います。ってまた書くのか……。