書こうか書くまいか悩んだのですが、まとめておくことにしました。作品からなのか、好みでか、リーディング活動のせいなのか、何なのか……私に「なんとなく」信頼を寄せて下さってる方も多いと思うのですが、その方たちに「現在、私はこういうスタンスです」とあらかじめ示しておくほうがいいかもしれない、と考えました。
つまりこれは私のスタンスの話であり、またそのスタンスが定まっていない、という話です。
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まずはこちらをご覧下さい。
短歌ヴァーサス:カレンダーコラム:若原光彦『詩の未来(前編)』
http://www.fubaisha.com/tanka-vs/top.cgi?mode=read&year=2005&month=8&day=30
短歌ヴァーサスカレンダーコラム:若原光彦『詩の未来(後編)』
http://www.fubaisha.com/tanka-vs/top.cgi?mode=read&year=2005&month=9&day=6
現代詩フォーラム:【批評・散文・エッセイ】指標を越えて
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=50469&from=listbyname.php%3Fencnm%3D%25A4%25A4%25A4%25C8%25A4%25A6
現代詩フォーラム:【批評・散文・エッセイ】Hello----,Hello----. 私たちは、つながっていますか?
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=58512&from=listbyname.php%3Fencnm%3D%25A4%25A4%25A4%25C8%25A4%25A6
前者ふたつは『UPJ3』直前に私が書いたものです。後者のひとつめはそれからしばらくして偶然読んだもの、後者のふたつめは『UPJ3』で配られた冊子『IU(イウ)』に掲載されていたもので、筆者はいとうさんです。
読んで貰えればわかるのですが、部分的に真逆になっている所があります。詩は「なんでもあり」だと言う人と、「なんでもありだと簡単に結び付けてはいけない」と言う人。現状の詩作者たちについても「一般からの評価を得ようとしている」と言う人と、「私を見て、ではない」と言う人。
どちらが正しいのか、と問われても答えられません。どちらも今の詩の世界についての話をしていますが、どちらがどの時点でどの面から何を見ているのか、異なっている可能性もあります。同じ世界で同じ話をしているようでいて、実はまったく違うものを見ているのかもしれません。似たフレーズが逆の見解で出てきたから真逆に見えるだけ、という気もします。
上記の4文、本当なら「若原」「いとう」といった名前を抜きにして読み比べて欲しかったのですが、そういうわけにもいかないのでそのままリンクしました。
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先日、奈良である方(以下、仮名でAさん)とお話しました。その席で、私が『web同人詩誌『めろめろ』が終わるため、投稿サイトに復帰しようかと考えている』と言うと、Aさんは「投稿サイトの現状と、ネットの詩の未来の形」についてコメントされました。そのお話はとても興味深いものでした。
これは私もAさんも同じ意見だったのですが、投稿サイトは今、終わっています。少なくとも先細ってはいる。個人サイト付属の投稿掲示板なんてもう流行らないし、もてなしやゲーム以上の意味はない。かしこまった印象のある『現代詩フォーラム』でさえ、安易な作品が増えすぎている。またそうした創作しかしない作者が流れ込みすぎている。投稿サイトでの評価は作品・作者の、ひいては詩の世界全体の向上に繋がらない……。
Aさんによると、『poenique』の縮小もその流れの中にあるそうです。どうして『poenique』が急に縮小することになったのか疑問だったのですが、なるほど、と思いました。雑多な作品を集積・公開する投稿サイトの機能にはもう重要性がない。投稿サイトは今、詩誌のシステムを取り入れようとしている。選者や編集者を置き、詩作品・コラム・論評などを厳選し、質を高めて提供しなければならない。そうでなければ詩が認められていかない。いつまでも投稿サイトでざわざわとコミュニケーションしていても先へは進まない。実際、ネットから詩誌の投稿欄に人が流れ込んでいる状況はある。詩誌とネット詩が融合し始めている、もしくは、ネットが詩誌のシステムを応用しようとしている。そして、世間から認められるような人を育て飛び立たせようとしている……。
いろんな方にご迷惑のないよう断っておきますが、もちろん実際の言い回しは上記とは違います。ここから下記も同様です。いろんな手がかりを私の中でいったん咀嚼してから書いているため、若原の勘違いが含まれている可能性もあります。
また同じ意見をお持ちの方でも、人によって細部の考えは違うと思います。名前や細部ではなく、あくまで「二種類の一般論」そして「若原の迷い」としてお読み下さい。
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私の考えは逆でした。一般が良い作品だと認めるから、良い作者は飛び立ち、結果として詩が認められるようになるんだろう。詩人が詩人を裁き、権威付けし、作品とは別のところで作者が評価されかねないシステム……それは状況をよりマニアックするだけだ。選者を立てるのではなく、大勢がそれぞれに良いと思う作品を選び出していく作業を地道に続けた方が実作者も読者もまともに育つはずだ。確かに『現代詩フォーラム』のポイントシステム(投票・お気に入りのようなもの)は失敗したが、それでも私は「一般の大勢がそれぞれに選ぶ」方向に期待している。また、それを簡単にできるのがネットという環境じゃないか……。
私がそう思っているのは、私が『選者を置いても編集者が口を出しても、作者の能力は育たない。一作品へのアドバイスや批評は一作品にしか効果がない。結局、継続的な創作能力は自力で身に着けていくしかない』という考えでいるからです。
また私は『詩形式は、詩らしい詩しか受け入れないわけではない。ポエムも書も同じ創作者だ。誰もがそれぞれに創作を深めることが重要で、それを支えるのがネット詩やオープンマイクという場だ』と思っています。定型詩という異形から投稿サイトやオープンマイクに入り、なんでもありの中で温かく迎えられ、自力でどうにか進んできた私は他人にもそうありたいと考えている。選ばれずに拒まれずに迎えられ、各自が自分で気付き、苦心し、どうにか自然と育っていくものに期待したい。
まるで意見が真逆です。ですが、実はもともと話がかみ合っていません。そもそも論じている地平が違うのです。
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私の話は「詩を書き楽しみながら、それぞれの作者が成長すること」そして「それを体験できるものとして、詩やリーディングが広まってくれれば」という見方です。あくまでいち実作者の視点に立っています。
対して、Aさんが聞かせてくれたのは「世間が詩を認めるようしていくためには」であり「詩を売れる商品にするためには」という話です。「各個の詩作者は放っておいても勝手にやる。だがその中から『売れる』人を見つけ支え送り出すには、世話人が要る」。世間と実作者群のあいだに立つ視点です。
私の話は個々の実作者に根ざしたものであり、詩の評価向上なんてその結果、おまけぐらいにしか考えていません。一方、Aさんが話してくれたことはマーケティングというか……出版やメディアも視野に入れた現実的な考え方です。私の考えは理想論であり、甘い。理想は理想でいいのだけれども「理想の前に努力すべきことがある」ということにネットの詩は気付いたのだ、と。
だから、どちらが正しいとかいう問題ではないんです。微妙にずれているし、どちらにも長所・短所は含まれている。実際、Aさんは何度も「編集やプロデューサーが関って『売れるように』と詩集を作る。それが実際に売れたとしても、それが詩集が良い詩集かどうかはまた別の問題だ」と念を押していました。詩誌のシステムをネットに取り込むことについて、欠点は誰もが予感している。それでも、やらなきゃならないことは誰かがやらなきゃならない。
なのに私は『その欠点が嫌だから、そのシステムは嫌だ』とつっぱね、先へ進もうとしていない。詩誌や選者のシステムを信じていない。私は、間違っていないけれど間違っている……。
*
オープンマイクの主催者としては、非常に悩みます。みんな肯定してあげたいとも思うし、もっと線引きやランク付けをすべきだとも感じる。『ランク付けはライブイベントに任せて、オープンマイクは楽しく毎回やればいいか』とも言い切れない。ライブイベントは数が少ないんだから。普段のオープンマイクから人を育て、客を呼ぶつもりじゃないといけない。でもそうやって詩のサイボーグ・詩の純粋培養・詩のプロフェッショナルみたいな化け物が育つのを私はこころよく思わない。生活と創作とが両輪のように回転し、無名の市民が自信を持ったり楽しみを見つけたりして活き活きしてくれるのが嬉しい。詩の超専門家みたいな人はお呼びじゃない。でもそんなこと言ってたら、低レベルな詩作者を増産するだけでは……。結局「なんでもあり」の全肯定は個人も場も腐らすのか……。内輪の場になって停止してしまうのか……。
何度かこのブログに書いてきた企画『いろんなひとの詩論の作文を集めたサイト』も、私の「みんな肯定してあげたい」「それぞれ独自に成長し、それぞれ自力で育て」という考えから企画されたものでした。でも、ネット自体がもうそんなノリじゃないのかもしれない。そもそも企画サイトが成功する流れも感じない。でもやりたいし、やる意味があると思う。でもやり方は変えなきゃいけない。どうしたらいいのか……。
私は詩らしいを書き、それを朗読し活動している「詩の人」ですが、私は『オープンマイクに詩じゃない作文朗読が来てもいい』『ポエムも嫌いじゃない』『詩なんて書かない方がまとも』という感覚でもいます。「詩の人」だけど、「詩を愛している」というわけでもないし、「詩の専門家」でもないし、「詩の認知度向上のために」と活動しているわけでもない(この点は過去に『詩的についての断章』で少し触れました。私は、詩的や詩作者が好きなのであって、詩形態や詩業界が好きなわけではないんです)。
悩みます。非常に悩みます。そしてなぜ悩むのかと言えば、私の意思がはっきりしていないからです。自分の体験からしかものを考えられず、実作者にも業界関係者にも徹せず、立場が定まっていない。
結論としては、私はもうしばらくこのままでいるつもりです。『詩のあるからだ』も「基本的に楽しい会を目指す」という方向で続けます。でも、それでいいのか?……と違った視点の気配も抱えていくことが、しばらくは、自分のためになると思うんです。
*
話は冒頭に戻ります。リーディングライブの出演でしたらこんな話は関係ないのですが、執筆依頼のような話だと、こうした「考え方の違い」は必要だと思うのです。
といっても、別に人や物事を門前払いしたいわけではなくて。……私は今あるものを書くことになっているのですが、その依頼主や作品と対面しているうちに『私の考えやスタンスを理解してくれた上での依頼というのは、本当にうれしいものだなあ』と感じているんです。
このBlogのこの投稿は、多くの方への参考として書きました。私の作品を読んだり聞いたりには全く無関係なんですが、「詩の人」「詩の活動家」として若原を見る場合には、ちょっと思い出して頂けると幸いです。
2005年12月27日
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