2008年09月11日

2008年9月10日水曜夜についての断章

・2008年9月、八事オープンマイク『詩のあるからだ』開催日。軽く早めの夕飯を取り、17:30に家を出た。本当は17:00に出るつもりだったが、支度に手間取り遅れた。

・家を出てすぐ、違和感を感じた。自転車の後輪がやけに跳ねる。跳ねるというより「衝撃を吸収していない」と表現した方が実感に近い。走行状態のまま(見晴らしのよい田畑の間の道で、接近する通行者や車がないのを確認した上で)振り返り後輪を見たが、パンクしているわけではなかった。後輪のエアーが減っているらしい。

・家に戻って空気を入れ直している暇はない。そのまま駅まで漕ぎつけ、駅そばの駐輪場で空気入れを借りた。

・JRで金山へ向かう。自動改札にTOICA(トイカ。JR東海のICカード)を押し当ててから、残金不足ではないかと不安になったが、その心配はなかった。先日の『詩のボクシング三重大会 in 鈴鹿』の際に入金した余りで、今日の往復はまかなえそうだった。

・電車を金山で降り、改札を出て、すぐ端で立ち止まった。金山駅の改札外すぐの売店では『CHERRY』が売っている。普段『echo』か『Peace(ロングピース)』を吸っている私だが、金山で降りる用事がある際はここで『CHERRY』を買う。名古屋に来たついでの、私なりのささやかな贅沢だ。

・しかし私は今、改札を出てすぐ左側にいる。売店は改札の右側だ。売店の側に行くには、改札から抜けてくる人の間を横切らなくてはならない。

・人と人の間が広がっている部分へ追走し、さっとすり抜けようとしたが、背広姿の男性が隙間を埋めるような(他の人よりも早足な)速度で近付いてきていた。ここで私が立ち止まってしまっては、男性だけでなく、他の人の流れまで止めてしまうことになる。私は速度を上げてそのまま通り過ぎた。その瞬間、背後で男性の舌打ちが聞こえた。

・地下鉄金山駅へのエスカレーターに乗りながら、私は舌打ちについて考えた。私は何かあった際、瞬間的に、即応的に舌打ちが出せるだろうか? パッと舌打ちできるのは、普段から舌打ちをする習慣(癖)がある人だけではないのだろうか? 指を鳴らす行為(いわゆる“ゆびパッチン”)も似たようなところがある。誰でも意識すれば出せるが、瞬間的にパッと出せるものではない。

・苛立ちに舌打ちをする、という、まるで漫画のような仕草をとる人間が本当にいるなどとは、これまで私は考えてはいなかった。人間はそんなに単純ではない、絵に描いたように、映画のようにフィクションのようには生きていない、と思っていた。だが、現実にいた。私は、自分が舌打ちを食らったことでも、自分が舌打ちをさせてしまったことでもなく、「本当に舌打ちをする人間がいるのだ」ということに驚いていた。

・金山で地下鉄に乗り込むと、左(列車後方)から、女性が車内を歩いてきていた。座れる席をどこか探しているのかと思ったが、違った。女性はひとつ空いていた席を無視して通り過ぎていった。なんだろうと思いつつ、私はその空いていた席に座った。席の左には新聞を読んでいる老女、右には文庫本を読んでいる男性が座っていた。

・他人と非常に近い状態であるので、私はMP3プレーヤーの電源を切った。ボリュームを絞ってあるので音漏れの心配はない筈だが、念には念を入れて。私はMP3プレーヤーを片付け、鞄から本を取り出し、読み始めた。

・途中の駅で、幾人かの乗客が降りていった。と、座席がだいぶ空いた所で、私の左にいた老女が腰を浮かし、もうひとつ左に位置を変えた。右の男性はもうひとつ右に位置を変えた。左右の二人ともが私からひと座席だけ遠ざかった。名古屋が嫌になるのはこういう時だ。そんなに他人の傍が嫌なのか? 私が臭いとか、明らかな理由があったのなら当然だけれども。まさか。

   *

・八事から岐阜への帰り。私は本を読みながら地下鉄で移動し、金山駅に着いた。JRに乗り換えねばならないが、大垣行きの普通(各駅停車)が1分後。大垣行きの快速が5分後。どちらにするか迷った。読みたい本があるのだから、多少時間がかかる各駅鈍行でもいっこうに構わない。普通でも快速でもどちらでもよい、座れさえすればよい。

・とは思ったが、ベンチに座って一息ついたすぐに普通列車が訪れた。何故だかベンチから立ち上がる気がせず、私はそのまま普通列車を見送った。

・幸い、次の快速列車でも席に座ることはできた。ただし、端の、4人席になっている部分だった。私は気にはならないが、私が席に着こうとすると、正面の男性(大学生または専門学校生のようだった)が一瞬、顔をムッとさせた気がした。気のせいだろうか、と特に理由もなく条件反射で視線をそちらに向けると、もう男性は顔を窓側にそらして携帯電話をいじっていた。

・金山では私の右側は空席だったが、次の名古屋でサラリーマンの男性がそこに座った。男性は携帯を取り出し、なんらかのゲームをプレイし始めたようだった。そして男性は、しょっぱなに5回、鼻をすすった。そして咳をし「ゴッ・ムウン」と喉を鳴らした。

・開いた本へ向けていた私の視界の端に、男性の靴が見えた。男性は黒いスラックス、半そでのワイシャツにノーネクタイという、名古屋でよく見るタイプのサラリーマンに見えたのだが、靴は運動靴だった。おや、と思ったが、頭髪に白いものが混じっており、夏服の男子中高生というわけでもなさそうだった。失礼だが「いまひとつ像を結ばない人だな」と思った。

・と、男性がまた咳をし「ゴッ・ムウン」と喉を鳴らした。この咳と異音のコンボは、この後、数十分間、断続的に続くことになる。そしてそのたびにタマネギでもニンニクでも汗でもない、形容しがたい悪臭がした。病気の時、過度のダイエット中など、人間の吐息は体調によって臭くなることがある(もちろん単に食べた物の臭いという場合もあるが)。数秒ごとに咳と異音を発している男性は、どうも風邪をひいているらしかった。風邪をひいている人間に対して臭いだのなんだの、と思うことはよくない。気にはなったが、耐えた。

・私はついおとつい風邪をひき、つい昨日治したところだった。閑話になるが、その際、思い当たる理由もなく、右目だけが充血した。最初はやや違和感を感じた程度で、私は「風邪薬のせいで眠くなりつつあるのだろう。なぜか右目を中心に睡魔が襲ってきているのだろう。だから右目だけまぶたが降りがちになっているのだろう」と考えた。しかし明らかな痒み(炎症)だと体感できるようになり、鏡に顔を映すと右目だけ白目が毛細血管で赤ばんでしまっていた。下まぶたを指で押すと、目とまぶたの間の部分(あかんべをすると赤く見えるあの部分だ)に白い糸状のものが見えた。結膜炎の時に出るあれだ。洗面器に水を張り、右目を洗ったが違和感は消えない。むしろ酷くなっている。こんな状態では何もしていられない。やむなく、早すぎるが寝た。目覚めた次の一日つまり昨日は、まだ赤みも違和感も取れていなかったが、翌々日つまり今日(2008-09-10)になって違和感はほぼなくなった。ただし、まだ右目だけ視界が時折ぼやける。目を開いている間は何も感じないが、両まぶたを閉じると右目だけに微弱な痒みもある。気になるほどではない、このままにしておけば完治するだろう。閑話休題。

・JRを降り、近くの中古屋へ向かった。先々週あたりに立ち寄った際、あるマイナーな名作ゲームが傷アリ3000円という破格になっていた。プレイしている暇がない、とその時は買わなかったが、後になってやはり手に入れておきたくなったので向かった。しかし店はもう閉店した後だった。夜22時台なのだからしかたない。昔は23時まで営業していたのだが。

・自転車を漕ぎ家の方角へ向かったが、途中で気が変わり、家への近道ではなく、直進の道を選んだ。その先にあるファミレスに入り、今日ずっと読んできた本の続きを読むことにした。普段は地元のファミレスを使うことなどめったにないが、名古屋から戻った時だけ、こういう気分になることがある。そのまま家に帰る気がせず、かといって無駄づかいする気もなく、手ごろな居場所にファミレスがある、という。

・まだ22時台ということもあり、店内は賑わっていた。ドリンクバーと雑炊を注文し、ホットココアを飲みながら読書にふけっていたところで雑炊がきた。とりあえず落ち着きたかったのでホットココアを取ったが、これを飲み干したらコーラなり、メロンソーダなり、アイスドリンクにしようと思っていた。そしてそれはすぐだろうと思っていたが、予想に反して雑炊が早かった。ホットココアに雑炊。まあ、いい。あまり気にせず右手で雑炊を口に運び、左手で本のページをめくった。合間でたびたびココアを口にした。

・1〜2時間ほどして本が佳境に入ったころ、窓の外からバイクの音(原付の免許を持っているが運転をほとんどしない私には、それがエンジンの音なのかマフラーからの廃棄音なのか、両方なのかわからない。ともかく駆動音だ)が聞こえた。夜だからかやけに鮮明に響く。と、私の真後ろでテーブルで「誰や!」と叫ぶ声がした。どうやら、私の後ろにいた客が、私の肩越しに窓を見ながら叫んだらしい。にしても、バイクの音に対して「誰や」とは何だろう。

・そののち、私の背後の客(10代後半〜20代前半ほどだろうか、男性4名)の中から「暴走族に入っとらんとわからんこと」といったフレーズが聞こえた。なるほど。私はこれまで深夜にファミレスにいる客とはどういう人間なのか、自分以外いまひとつよくわからなかったが。暴走族やその類(たぐい、という表現は失礼だが)というのはありうることだ、と思った。

・なお、別のテーブルから聞こえた話し声としては「タイヤ交換してたら」「仕事中でも話しかけてくる」というものがあった。自動車修理工か、タイヤ屋か、そうした仕事の同僚同士が集まって愚痴を言い合っていたようだった。

・さらに2時間ほど経った。本は残り6分の1ほどになり、このまま閉店の5時まで居座れば読破することも充分できたが、私は帰宅することにした。時間が遅くなり客が減り、店内は静かになっていた、しかしなぜだか、私は読書に集中できなくなりつつあった。疲労ではなく、どちらかというと無関心がもたげてきたような心境だった。本自体はとてつもない名書なのだが、真剣に向かい合う気力がわかない。あくまで言葉を追い、その意味を把握していけるだけだ。こんな読書は面白くないし、この本に対してももったいない。

・席を立ちレジに向かったが、レシートを忘れていたのでいったん席に引き返した。清算を済ませ、いつだかと同じく「次回お使いください」とドリンクバーの割引券を渡された。どうでもよいがこの店はいつも、この割引券を2枚渡してくる。1回の利用で2枚を受け取るわけで、仮に次回1枚を使用したとしても、もう1枚は未使用のまま余ることになる。かつ、その次回利用時にもやはり2枚渡されるわけだから、この調子でいけば私の受け取る割引券は1利用ごとに1枚ずつ増える計算になる。これは「誰かと来て2枚使え」という無言のメッセージなのだろうかと考えもしたが、真相はわからない。

・ファミレスの駐輪場で自転車の鍵を外し、前かごに鞄を入れようとしておやと思った。かごの中にゴミが捨てられている。

・私は自転車のかごに、雨の日に鞄を雨から守るためのビニール袋を入れている。晴れの日にも入れっぱなしにしているのだが、これがゴミを呼ぶらしいのだ。人間、きれいに整った所ではポイ捨てする蛮勇をくじかれる。反面、やや雑然としたところへは平気で投げ捨てられてしまう。駐輪場に自転車が並んでいても、ゴミを投げ入れられるのは「あらかじめ小汚いビニール袋が入っている」私の自転車のカゴだったりするのだ。

・その場合、たいてい入れられているのは空のペットボトルだ。しかしこのときは違った。マイルドセブンのカートンを破いた紙、レシート数枚、そして伝票のようなもの1枚。こんなものが入れられているのは初めてだ。私は丸められていたレシートと伝票を広げてみた。

・伝票は、タイヤ屋(タイヤに限らず自動車関係全般、修理点検も行っているところだが)の納品書だった。車種はクレスタ、色はパールと記入されている。商品名の部分には、デッキ点検、純正、CDが出てこなくなった、と書かれている。金額はNC。このNCが何を意味するものなのかは私にはわからない。

・その他のレシートも同一人物のものだとして、取りまとめて考えるとこうなる。2008-09-07(日)12:01、ディスカウントストアにて『パルティターンカラーディーフ』598円を購入(ターンカラー、おそらく染めた毛を黒髪に戻す薬剤だろう)。2008-09-07(日)17:30、先の伝票のタイヤ屋でクレスタの納品を受ける。2008-09-08(月)00:42、名古屋高速道路公社、庄内通料金所にて750円支払。2008-09-09(火)15:42、私の近所にあるコンビニエンスストアでハムカツサンド240円を購入。以上だ。

・先の伝票には、車種、色、作業内容だけでなく、この伝票の受け取り主の名前、住所、携帯電話番号、カーナンバーまで記されている。そこまでブログで記してやろうか、と思わなかったと言えば嘘になるが、それを実行しないことが私の良心を、善さを証明するのだと、自転車を漕ぎながら誇りに思った。そしてすぐさま、その発想自体が俗悪、卑小、負け犬根性以外の何物でもないということを悟った。私も下らん小者に成り下がったものだ。

・しかしさておき、このわけのわからぬ一日は、これはこれとして愉快と言えなくもなかろう、と、素材にすることに決めた。全く無意味な内容ではあるが、ともかくも平凡な或る日の風景として、のちに何らかの価値を持たないとも限らない。それに、私は近ごろこうした感情も冗談も抜いたザバけた文章に心地よさを感じている。ひさびさのブログの題材としては格好だろう、と思った。

・家に着き、上記についての簡単なメモを書いてから、眠った。

   *

 とまあ、そんな日でした。昨日の晩は。

 あ。思い出しました。そうそう、最初はこれを書こうと思ってたんだった。なんか上記うだうだ近況の方がメインになっちゃいましたけど。

 約2年前に書いた記事のカット画像に使ったネコなんですけれども。近ごろは見かけなくなりました。
 が。同じ毛色のネコはよく見ます。でっかいです。普通のネコの1.2倍ぐらいある。たまにだら〜んと伸びて庭先に寝てる姿を見かけます。同じネコだとしたら……うーむ。時が経つのは早いものだ。
 写真はまだ撮れてませんけど、もし撮れたらまたカット画像で登場してもらいましょう。……けど毎日会うわけじゃないからねぇ。撮れるかなあ。どっかその辺には居るんでしょうけどねぇ。
posted by 若原光彦 at 21:15 | Comment(1) | TrackBack(0) | 雑感

2005年12月27日

詩の未来、補記

 書こうか書くまいか悩んだのですが、まとめておくことにしました。作品からなのか、好みでか、リーディング活動のせいなのか、何なのか……私に「なんとなく」信頼を寄せて下さってる方も多いと思うのですが、その方たちに「現在、私はこういうスタンスです」とあらかじめ示しておくほうがいいかもしれない、と考えました。
 つまりこれは私のスタンスの話であり、またそのスタンスが定まっていない、という話です。

   *

 まずはこちらをご覧下さい。

短歌ヴァーサス:カレンダーコラム:若原光彦『詩の未来(前編)』
http://www.fubaisha.com/tanka-vs/top.cgi?mode=read&year=2005&month=8&day=30
短歌ヴァーサスカレンダーコラム:若原光彦『詩の未来(後編)』
http://www.fubaisha.com/tanka-vs/top.cgi?mode=read&year=2005&month=9&day=6

現代詩フォーラム:【批評・散文・エッセイ】指標を越えて
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=50469&from=listbyname.php%3Fencnm%3D%25A4%25A4%25A4%25C8%25A4%25A6
現代詩フォーラム:【批評・散文・エッセイ】Hello----,Hello----. 私たちは、つながっていますか?
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=58512&from=listbyname.php%3Fencnm%3D%25A4%25A4%25A4%25C8%25A4%25A6

 前者ふたつは『UPJ3』直前に私が書いたものです。後者のひとつめはそれからしばらくして偶然読んだもの、後者のふたつめは『UPJ3』で配られた冊子『IU(イウ)』に掲載されていたもので、筆者はいとうさんです。

 読んで貰えればわかるのですが、部分的に真逆になっている所があります。詩は「なんでもあり」だと言う人と、「なんでもありだと簡単に結び付けてはいけない」と言う人。現状の詩作者たちについても「一般からの評価を得ようとしている」と言う人と、「私を見て、ではない」と言う人。
 どちらが正しいのか、と問われても答えられません。どちらも今の詩の世界についての話をしていますが、どちらがどの時点でどの面から何を見ているのか、異なっている可能性もあります。同じ世界で同じ話をしているようでいて、実はまったく違うものを見ているのかもしれません。似たフレーズが逆の見解で出てきたから真逆に見えるだけ、という気もします。

 上記の4文、本当なら「若原」「いとう」といった名前を抜きにして読み比べて欲しかったのですが、そういうわけにもいかないのでそのままリンクしました。

   *

 先日、奈良である方(以下、仮名でAさん)とお話しました。その席で、私が『web同人詩誌『めろめろ』が終わるため、投稿サイトに復帰しようかと考えている』と言うと、Aさんは「投稿サイトの現状と、ネットの詩の未来の形」についてコメントされました。そのお話はとても興味深いものでした。
 これは私もAさんも同じ意見だったのですが、投稿サイトは今、終わっています。少なくとも先細ってはいる。個人サイト付属の投稿掲示板なんてもう流行らないし、もてなしやゲーム以上の意味はない。かしこまった印象のある『現代詩フォーラム』でさえ、安易な作品が増えすぎている。またそうした創作しかしない作者が流れ込みすぎている。投稿サイトでの評価は作品・作者の、ひいては詩の世界全体の向上に繋がらない……。
 Aさんによると、『poenique』の縮小もその流れの中にあるそうです。どうして『poenique』が急に縮小することになったのか疑問だったのですが、なるほど、と思いました。雑多な作品を集積・公開する投稿サイトの機能にはもう重要性がない。投稿サイトは今、詩誌のシステムを取り入れようとしている。選者や編集者を置き、詩作品・コラム・論評などを厳選し、質を高めて提供しなければならない。そうでなければ詩が認められていかない。いつまでも投稿サイトでざわざわとコミュニケーションしていても先へは進まない。実際、ネットから詩誌の投稿欄に人が流れ込んでいる状況はある。詩誌とネット詩が融合し始めている、もしくは、ネットが詩誌のシステムを応用しようとしている。そして、世間から認められるような人を育て飛び立たせようとしている……。

 いろんな方にご迷惑のないよう断っておきますが、もちろん実際の言い回しは上記とは違います。ここから下記も同様です。いろんな手がかりを私の中でいったん咀嚼してから書いているため、若原の勘違いが含まれている可能性もあります。
 また同じ意見をお持ちの方でも、人によって細部の考えは違うと思います。名前や細部ではなく、あくまで「二種類の一般論」そして「若原の迷い」としてお読み下さい。

   *

 私の考えは逆でした。一般が良い作品だと認めるから、良い作者は飛び立ち、結果として詩が認められるようになるんだろう。詩人が詩人を裁き、権威付けし、作品とは別のところで作者が評価されかねないシステム……それは状況をよりマニアックするだけだ。選者を立てるのではなく、大勢がそれぞれに良いと思う作品を選び出していく作業を地道に続けた方が実作者も読者もまともに育つはずだ。確かに『現代詩フォーラム』のポイントシステム(投票・お気に入りのようなもの)は失敗したが、それでも私は「一般の大勢がそれぞれに選ぶ」方向に期待している。また、それを簡単にできるのがネットという環境じゃないか……。
 私がそう思っているのは、私が『選者を置いても編集者が口を出しても、作者の能力は育たない。一作品へのアドバイスや批評は一作品にしか効果がない。結局、継続的な創作能力は自力で身に着けていくしかない』という考えでいるからです。
 また私は『詩形式は、詩らしい詩しか受け入れないわけではない。ポエムも書も同じ創作者だ。誰もがそれぞれに創作を深めることが重要で、それを支えるのがネット詩やオープンマイクという場だ』と思っています。定型詩という異形から投稿サイトやオープンマイクに入り、なんでもありの中で温かく迎えられ、自力でどうにか進んできた私は他人にもそうありたいと考えている。選ばれずに拒まれずに迎えられ、各自が自分で気付き、苦心し、どうにか自然と育っていくものに期待したい。

 まるで意見が真逆です。ですが、実はもともと話がかみ合っていません。そもそも論じている地平が違うのです。

   *

 私の話は「詩を書き楽しみながら、それぞれの作者が成長すること」そして「それを体験できるものとして、詩やリーディングが広まってくれれば」という見方です。あくまでいち実作者の視点に立っています。
 対して、Aさんが聞かせてくれたのは「世間が詩を認めるようしていくためには」であり「詩を売れる商品にするためには」という話です。「各個の詩作者は放っておいても勝手にやる。だがその中から『売れる』人を見つけ支え送り出すには、世話人が要る」。世間と実作者群のあいだに立つ視点です。

 私の話は個々の実作者に根ざしたものであり、詩の評価向上なんてその結果、おまけぐらいにしか考えていません。一方、Aさんが話してくれたことはマーケティングというか……出版やメディアも視野に入れた現実的な考え方です。私の考えは理想論であり、甘い。理想は理想でいいのだけれども「理想の前に努力すべきことがある」ということにネットの詩は気付いたのだ、と。

 だから、どちらが正しいとかいう問題ではないんです。微妙にずれているし、どちらにも長所・短所は含まれている。実際、Aさんは何度も「編集やプロデューサーが関って『売れるように』と詩集を作る。それが実際に売れたとしても、それが詩集が良い詩集かどうかはまた別の問題だ」と念を押していました。詩誌のシステムをネットに取り込むことについて、欠点は誰もが予感している。それでも、やらなきゃならないことは誰かがやらなきゃならない。
 なのに私は『その欠点が嫌だから、そのシステムは嫌だ』とつっぱね、先へ進もうとしていない。詩誌や選者のシステムを信じていない。私は、間違っていないけれど間違っている……。

   *

 オープンマイクの主催者としては、非常に悩みます。みんな肯定してあげたいとも思うし、もっと線引きやランク付けをすべきだとも感じる。『ランク付けはライブイベントに任せて、オープンマイクは楽しく毎回やればいいか』とも言い切れない。ライブイベントは数が少ないんだから。普段のオープンマイクから人を育て、客を呼ぶつもりじゃないといけない。でもそうやって詩のサイボーグ・詩の純粋培養・詩のプロフェッショナルみたいな化け物が育つのを私はこころよく思わない。生活と創作とが両輪のように回転し、無名の市民が自信を持ったり楽しみを見つけたりして活き活きしてくれるのが嬉しい。詩の超専門家みたいな人はお呼びじゃない。でもそんなこと言ってたら、低レベルな詩作者を増産するだけでは……。結局「なんでもあり」の全肯定は個人も場も腐らすのか……。内輪の場になって停止してしまうのか……。

 何度かこのブログに書いてきた企画『いろんなひとの詩論の作文を集めたサイト』も、私の「みんな肯定してあげたい」「それぞれ独自に成長し、それぞれ自力で育て」という考えから企画されたものでした。でも、ネット自体がもうそんなノリじゃないのかもしれない。そもそも企画サイトが成功する流れも感じない。でもやりたいし、やる意味があると思う。でもやり方は変えなきゃいけない。どうしたらいいのか……。

 私は詩らしいを書き、それを朗読し活動している「詩の人」ですが、私は『オープンマイクに詩じゃない作文朗読が来てもいい』『ポエムも嫌いじゃない』『詩なんて書かない方がまとも』という感覚でもいます。「詩の人」だけど、「詩を愛している」というわけでもないし、「詩の専門家」でもないし、「詩の認知度向上のために」と活動しているわけでもない(この点は過去に『詩的についての断章』で少し触れました。私は、詩的や詩作者が好きなのであって、詩形態や詩業界が好きなわけではないんです)。

 悩みます。非常に悩みます。そしてなぜ悩むのかと言えば、私の意思がはっきりしていないからです。自分の体験からしかものを考えられず、実作者にも業界関係者にも徹せず、立場が定まっていない。
 結論としては、私はもうしばらくこのままでいるつもりです。『詩のあるからだ』も「基本的に楽しい会を目指す」という方向で続けます。でも、それでいいのか?……と違った視点の気配も抱えていくことが、しばらくは、自分のためになると思うんです。

   *

 話は冒頭に戻ります。リーディングライブの出演でしたらこんな話は関係ないのですが、執筆依頼のような話だと、こうした「考え方の違い」は必要だと思うのです。
 といっても、別に人や物事を門前払いしたいわけではなくて。……私は今あるものを書くことになっているのですが、その依頼主や作品と対面しているうちに『私の考えやスタンスを理解してくれた上での依頼というのは、本当にうれしいものだなあ』と感じているんです。

 このBlogのこの投稿は、多くの方への参考として書きました。私の作品を読んだり聞いたりには全く無関係なんですが、「詩の人」「詩の活動家」として若原を見る場合には、ちょっと思い出して頂けると幸いです。
posted by 若原光彦 at 20:18 | Comment(0) | TrackBack(1) | 雑感

2005年03月11日

『なんで屋』さんに初遭遇

 昨日9日(水)は、名古屋八事でオープンマイク『詩のあるからだ』がありました。早めに家を出て、会場のPOPCORNさんで本でも読んでいよう……と思っていたのですが。

   *

 JRから降り、金山駅から出たところで『そうだ。路上パフォーマーを少し見ていこうかな』と南口へ向かいました。
 南口にいたのは、ミスチルをギター1本で歌ってる男性、オリジナル曲(だと思う)をギター弾きながら歌っている男性(『The Babies』さん)、詩の書のポストカードを売っている男性。
 私はまず詩の所に近づきました。いちばん手前で近かったから。

 近づいて見てみると、立て看板には「なんで屋」と書かれていました。売られているポストカードは、詩の書によくある励ましっぽい言葉が3分の2、「いい男って何だ?」とか「理由なき殺人が増えたのは何で?」などと疑問系でキツい質問が書かれたものが3分の1。前者はともかくとして、後者は一体なんだろう。私はこういう言葉は好きだけど、それでも買おうとは思わない。
 それと、何か印刷がきれい過ぎるような……。犬の絵もやけに上手いし……。お店番の男性(大学生ぐらいのお兄さん)が書いたものじゃないんじゃないか?
 お店番の男性は、ホワイトボードを取り出して、お客の女性の話を聞き人生相談のようなことを始めました。男性の横には高校の制服を着た女性が一人、私服で大学生ぐらいの女性が二人。これはどういう……大学のサークルか何かかな。

 と、あれこれ考えながら見ていると。私が来る以前から居た、男性のお客さんが話しかけてきました。お話を聞くに、この方も関係者だったようで。何をしてるのか、どういう会なのか説明されました。

   *

 これは『なんで屋』というもので「疑問や悩みをお客さんと一緒に考え原因や解決策をつきとめる」露店だそうです。関東・関西で続いていたものが、最近名古屋でも始められたのだそうです。

なんで屋@名古屋
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なんで屋@名古屋のブログだがね!
旧Blog(2005-01-04〜2005-02-12) 新Blog(2005-02-24〜)

『なるほど、ようするに街頭カウンセリングといったところかな』と私は思いましたが、話を聞くにどうやらそれだけではないらしい。
 関係者の男性とした話をこまぎれに思い出してみます。「」が男性、『』が若原です。うろ覚えなので順序や言葉遣いは実際と多少違いますが、だいたいこんな内容でした──

「人の話を聞くのは楽しい。人間は他人の話に耳を傾けるように出来ている」
「人間は一人では生きていけない」
「何でオスメスがいるの? とか考えていくと、どんなことにも理由はある。人間の原点をたどって事実から問題を考えていくと解決策が見えてくる」
「いろんな疑問を子供のように素直に考えてみたい」
「考える動物は人間だけだし」

『なんだか哲学みたいですね』
「ちょっと違うけど。宗教でもないし」
「考えることから社会を変えていきたいという集まりです」

「ある苦しい立場に居る人がいたとして、その状況は全てその人のせいではない。育った環境にも原因はあって」
『そうですね』
「もし自分と同じ環境で育てば誰でも似たような人になるでしょう」
『それはそうです、それは私もそう思います』

「1970年までは誰もが自分第一だった。今はみんな中産階級化して、食べ物だって捨てるほどある。暮らしに困ることはまずない。社会に余裕がある、だから若い人は目標を見失いがちだし、古い人(政治家とか)は自分第一の意識のまま椅子取りゲームをし続けてる」

「目の前でひとが飢えているのに一人だけ腹いっぱい食べることはできない。人間はそういう風に出来ている。そういう状況では辛さを感じるように出来ている」
「みんなの声に耳を傾けてそれを集めていけばこの先の解決策も出していけると思っている。政治や企業からではなく、みんなで集まって社会の不全をなおしたい」

『解決策が導き出せても、それは新たな事実を突きつけられて悩みが増えるということになりませんか』
「いや、策が見つかれば気持ちはすっきりするでしょう」

『お話を聞いてると、どうにもならない自分に振り回されている「弱者」・運命に翻弄されるタイプの人間の思考というより、どこかの会社の社長とか政治家とかのような、何でも割り切ってしまえて頭がよくて才能があって使命を信じていて、という「強い人間」の論理に思えるんですけれど』
『私は弱者の側にシンクロしがちだし、運命や不毛や無意味や犠牲というのも自然なことだと思ってる。あなたはポジティブで強くて人間や善意を信じていて立派だけれどそれは誰にでも出来ることじゃない』
「でもそうやって「しかたない」「わからない」「運命」で切ってしまったら何も解決しない。そういう大人が多い」
『確かにそれはそうですが』
「運命とか宗教とか神とかだってちゃんと理由があって出てきた。みんなで考えたい」

「肯定というのがこの活動の基本姿勢になってる」
『肯定というのは「大人はわかってくれない」と言うセリフが示すように、肯定する=わかる=理解するということですから。それはみんな求めてるかもしれませんね』
「「理由なき殺人」なんて言うけど、本当はそれにも理由はあるんだよね。大人はわかってないだけで、同級生の子は「あいつならやると思った」とか気づいてたりする」
『いや、本当に理由なんて無かったかもしれませんよ』

──といった話をしました。
 どうもただの「お悩み相談」や「聞き屋」ではないようです。宗教でもないらしい。啓発セミナーっぽいような気もしないでもないけれど……私はビジネススクールっぽいなと思いました。「どこかのビジネススクールでブレーンストーミングを学んで、それを市民活動に応用している」みたいな。
 男性はポジティブで、私が多少失礼なことを言っても常に落ち着いた表情をしていました。30分以上あれこれ話したかな。互いのチラシを交換し、私は金山駅から地下鉄に乗って八事へ向かいました。

   *

 で、今日。ネットで調べました。

類グループ
るいネット

Mainichi INTERACTIVE:サンデー毎日:特集:人気露天商「なんで屋」ブームはなんでや?

『類グループ』というのがこの活動の本体組織らしいです。あの男性の言っていたことと同じことがサイトには書かれていました。この組織の思考法に沿って『るいネット』という会員制のサイトも運営しているようです。

 私はどうしても『みんなの意見の一致を目指すのは危険じゃないか?』『本当に全てが人間に理解できるのか?』『得た答が間違っていたら?』『人間古来の性質なんてものが本当に存在するのか? 存在したとして、現代や各自にそれを当てはめて成功するのか?』『言葉にならない衝動や運命といったものまで論理上に認識してしまっていいのか?』など、疑問が消えませんでした。
 私が詩を書く人間だから……答の複数ある問題や、言葉で割り切れない妙味を相手にしている人間だからそう思ってしまったのでしょう。世の中には「答を出し道を見つけ、そこを突っ走る」べき場合と「答を出さず、感受をそのまま受け入れる」べき場合とがあります。政治や経済などの実作業には前者が求められます。個人の快楽や体験は前者でも後者でもあります。前者のように分析していくと削り落とされるもの・誤解されるもの・こぼれ落ちるものを、後者のようにただ実感をしていくのもひとつの効率的な生き方です。
 自分は論理的な人間だと思っていたのですけれど。意外と個人的で非論理的な人間だったんだなあ、と気付かされました。まあ詩なんてだいたいが非論理的なものなんだから、今まで気づかないほうがおかしいのだけれど。
 というこの文章がやたら論理的なのも私らしいといえば私らしいです。

   *

 まあ『なんで屋』さんを訪れ、そこでの会話や思考を楽しむ場合はそんな深く考えなくていいと思います。言葉にしたい、考えてみたい問題があって、その相手をしてくれる人がいたらきっと楽しいだろうと思いますし。

 そういえば自分、男性と話していて「なにか普段、疑問に思っていることはありますか」と聞かれ、とっさに『詩って何ですか?』と言いかけました。『あわわ、いきなり何だ俺は。そんなことを言って困らせてはいけない』と思い、けっきょく何も言わずに話は進んだんですけれど。言ってみてもよかったかな。詩のポストカードも売ってたわけだし。ちょっと面白かったかもしれませんね。
posted by 若原光彦 at 02:28 | Comment(1) | TrackBack(2) | 雑感

2005年03月03日

田舎のBOOKOFF

 先日、100円ショップの『ダイソー』でオイルライターと専用オイルを買いました。風が強い状況でも使えるライターが欲しくて(でもまだ屋外では使ったことがないんですけれど)。……飾り気がまったくなくて、銀色でつるつる。シンプルで気に入りました。
 しかしネット上で調べてみるとこのライター、3日ほどで使えなくなるそうです。そしてその通り、一発で点火できたのは最初の3日だけでした。それ以降はいくら石を弾いても火花が散るだけで炎が立たない。
 でも昨日になってコツがわかりました。100円ライターのようにチョッとやるんじゃなくて、風防部分にまで指をかけてから一気にグワッと擦るといいみたいです。100発60中ぐらいになりました。なかなか面白いです。
 火柱がでかいのでビビりますけどね。手を離しても落っことしても火が消えないから、一歩間違うと床を焼いてしまいそうだし。面白いんだけど、面白がってもいられない。100円均一のガスライターの方が使いやすいかな、やっぱり。
 ガスライターは、いいですね。炎の形もかっこいいし、あの「シュゴーッ」って音が小気味よいです。

   *

 先日、所用の帰りにまたBOOKOFFに寄ってきました。先日買った本はほぼ読んでしまったし。本当は図書館で『世界の中心で愛をさけぶ』を借りてみようと思っていたのですが、行ってみたら図書館は休館日でしたし。

 田舎の、平日夜のBOOKOFFにはいろんな人が来ます。家族連れもいるし、作業着姿の男性もいるし、学校の下校後なのか塾の登校前なのか学生グループもいるし。
 でもその誰もが「サエない」顔をしています。疲れた顔ではないです、疲労が出ているわけじゃない。なにか、何にも興味がないような無表情をしています。男性も女性も子供も大人も。少女コミックの一角にいる女性も、青年コミックのところにいる男性も。
 顔だけじゃなく、服装も「サエない」感じです。上下ジャージとかいうようなあからさまな田舎くささじゃなくて。センスよく決まっていても、派手な色使いでも、沈んで見えてしまいます。

 私は105円のコーナーだけ、ばばばーっと「あの作者のはないか」「あの続巻はないか」「なんか気をひくタイトルの本はないか」と見ていったんですけれど。青年コミックのあたりで、何か声が聞こえました。本を棚に戻して振り返ると、30代中ごろぐらいの男性がぼそぼそと「……は……じゃない……で……だから……なんだ」「……が……なものは……だから」などと独りごとを言っていました。視線がうつろで背が丸くうつむき加減で肩が落ち込んでいます。なのに顔だけはまっすぐ前を見ている。
 周囲に客……他人が居ることにまるで気付いていないみたいに、自分は幽霊だとでもいうみたいに、男性はずっと呟き続けていました。私はひどく重苦しい気持ちになりました。この国には救いがないような、ひとや人生が素晴らしいものだとは思えない気分。じわじわと何かが悪いほうへと向かっているような実感。
 大袈裟ですよね。それはわかっているんですが。田舎はみんな地味に暗鬱だし、都会は誰もが早足で粗暴だし。ときどき人間が嫌いになってしまうことがあります。嫌な人にあったり嫌な目にあったりしても人間嫌いにはならないのですが。地味な不幸感を感じると、人間なんて、という気持ちになることがあります。

 結局BOOKOFFには2時間近くいました。で、105円の本を18冊ほど買いました。文庫やらマンガやら詩集やら(先日紹介した『現代日本詩集』をまた見つけたのでそれも買いました)。いい買い物したのか無題使いだったのか。
 本を買ったあとって、いつも「なにかしょいこんだ」ような気分になります。「わあ買ったぞ。これを待ってたぞ。早く読みたいぞ」なんて気分、ずっと忘れてるなあ。ゲームやレコードもそうだな、年齢とともに流行とか関心なくなっていくんでしょうかね。……って、私は昔から流行とは無関係の趣味で生きてきてますけど。
posted by 若原光彦 at 22:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感

2005年01月06日

茎と吸殻

 灰皿を見ていて、ちょっと思いつきました──

 灰皿には、天に向かって煙草のフィルターが何本も刺さっている。各フィルターの吸口は、中心から外縁部へとほんのり茶色に退色している。自然でまろやかなグラデーション。まるで植物の茎の断面のよう。

──……。煙草の吸殻を束ねて造花を作ってみたらどうだろう。不気味さと可愛らしさと、その両面が出て面白くないかな。汚くて綺麗で、人工的でナチュラル。整然としていてランダムでもある。

 いや、それだけなんですけどね。つぶれてない吸殻って、よく見ると面白い素材感してるよな、って。
posted by 若原光彦 at 23:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感

2005年01月04日

個人サイトと自己満足

 先日、偶然こんなページを発見しました。ちょっと読んでみてすぐに目からウロコ、全テキストをコピーし整理し印刷して読みました。作者はトッピーさん──

どうせ個人サイトと言わせない!75のヒント
http://toppy.net/hp/index.html

──ジャンルで言えば「サイト製作の心得メモ」でしょうか。名古屋周辺についての読み物サイト『Toppy.Net』のいちコーナーです。

 心得を説いたサイトの多くは「○○をしてはいけない」「○○は備えよう」といった『注意点の箇条書き』している場合が多数です。しかしそれは、サイト製作・運営の本質とはズレています。注意点をひとつひとつクリアしても、中身が無くては良いサイトにはなりません。仮に中身があっても、礼儀や更新が異質であれば受け入れられません。
「HTML等の基礎学習はこれからするところ。とにかくサイトを作ろうと思ってる」という人や「サイト運営に行き詰まっている」という人に役立つ文章は、ありそうでありません。
 トッピーさんの『どうせ個人サイトと言わせない!75のヒント』はその点をカバーした読み物です。『技術的な心得』を説くより前に(あるいは技術的な要点はすでに理解している人のために)『姿勢的・基本的な心得』を説いています。
 全編を要約すれば『何のためにあなたのサイトはあるのか?』『あなたに自己主張・自己表現・発信し続けたいことはあるのか?』という問いにつき詰められます。それは「掲示板は必要か?」「更新は義務なのか?」といった実用的な論点に向かいます。
 75のヒントは全て否定的な論調で書かれており(私も心あたりがありすぎて)相当キツイのですが、各章のラストにはトッピーさんのコメントがあり、辛いヒントの数々を(私たちと同じいちサイトオーナーとして)解説してくれています。一種類の論調で染めてくるのではなく、多数の視点を同時に持てるよう工夫されています。

 Webサイトは簡単に作れます。どんな手段で作ろうが、名刺代わりだろうが自己満足だろうが、私はあまり気にしません……自分のサイトでなければ。私は時々考えます。「自作を公開するためにサイトを作った」「だが自作を並べ評価を待つ段階はもう過ぎた」「では今サイトは何のためにあるのか。これから何処へ向かってゆくのか」。
 個人的創作(詩や文章、図画やパフォーマンス)は常に自己満足と隣り合わせです。自意識(美学など)が喪失(あるいは暴走)した瞬間にレベルが落ちます。一回ごとが真剣勝負……とまで神経すり減らさなくてもいいと思いますが、ときおり「何を目指すのか、どんな機能を持った何をするのか」と『姿勢的・基本的な問い』を持つことは必要だと思います。
posted by 若原光彦 at 22:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感

2004年12月31日

雪景色


 いま外はこんな状態です。午前中に降っていた雪がみぞれ雨になり、それがやんで少し経ったところです。
 サンダルを履いて自販機へ煙草を買いにいきました。足が冷たいです。電線からはボタボタと雪が落ちてきます。

   *

 思い出したのですが。数年前『日本WEB詩人会』で「各地で雪が降ったら、投稿掲示板に雪の詩が積もってきたのがとても素敵だと思った」という書き込みがありました。私たちは何かを共有している、みんな実態を持って生活している、そこから詩が届いている……そんなことを感じさせられて、なにか美しいものに気づけたようで、そのとき私はとても嬉しかったです。
 降雪や台風などがあるたび、私はこのことを思い出します。同じ時代に生きているんだな、って。

   *

 話は変わりますが。いま外の風景を撮影していて、気づいたことがあります。「私はいまカメラを横に構えている」。
 風景を撮影するとき、私はまずカメラを縦に使うか横に使うかを考えます。どの光景をどの範囲でどう切り取り、何と何と何を画面に収めるのか。構図を決める際にはまず「縦か横か」をさぐります。
 さっき雪が積もった近所にカメラを向けていて「いま私は横に使おうとしているな」と気づき「ふだんは縦にして空を入れたがるのに。なぜ今は横なんだろう」と疑問に思いました。撮れた写真を見て、その理由が分かりました。
 私は雪が積もった屋根や、それによって重苦しくなっている地上を画面に収めようとしてたんです。だから上下(空や足元)は画面に要らない、左右に展開する地上を枠内に込めた。

 写真って詩に似てるな、と時々思います。何を発見し、取捨し、まとめるか。もちろん写真の場合は(とくに人物を撮る場合は)色味や露出などの装置的な技術が必要ですが、着眼点や姿勢、こころの持ち方みたいなところは似ている気がします。
 詩を「この詩にはこれが書かれていない」「作者はきっとこういう人だ」と読むことがあります。そのように、最近は写真や絵画も「これにはこれが入っていない」「ここを拡大している」「ここを狙っている」という視点で見られるようになりました。作品を見て、作品内に描かれていないものを想像する楽しさと、そこから見えてくる作者の癖に好き嫌いを感じる面白さ。
 写真を撮っても、詩を書いてもサイトを作っても、自分は自分なんだなあ、出てるなあ自分が、……なんて思ったりします。
posted by 若原光彦 at 15:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感

2004年12月23日

理系と文系、理系な文系

 先日ネットで『デスマーチ』という語を見ました。だいたいの意味は知っていたのですが、正確なところが知りたくて検索してみました。すると、こんなページを見つけました。

デスマーチが起きる理由 - 3つの指標
http://www.hyuki.com/yukiwiki/wiki.cgi?%A5%C7%A5%B9%A5%DE%A1%BC%A5%C1%A4%AC%B5%AF%A4%AD%A4%EB%CD%FD%CD%B3

 文章量がかなりあるため、まだ半分ぐらいまでしか読んでいませんが……とても面白いです。問題解決に向けて、現状を分析しなおし、みんなで意見を出し合う様子が書かれています。状況演劇的っぽくも、ビジネス書らしくもあります。文体は読みやすく、流れもテンポいいです。

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posted by 若原光彦 at 08:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感

2004年12月18日

つらつらと近況を。

 つらつらと近況でも書いてみようとおもう。「読んだ本の感想を書かにゃな」「新しいデジカメを買ったんでそのことも触れときたいな」「12-15(水)の『詩の夕べ』に行ったこと書かにゃな」といった比較的大きくてわかりやすいエピソードは今は置いて。つらつらと近況を書いてみようとおもう。

 相変わらずのヘビースモーカーになってる。なんとなく『Marlboro』を吸ってみたが思ったより弱腰の煙草でがっかりした。アメリカンな銘柄、という先入観があったから、それなりに強いインパクトがあるだろうと思ったのに。
 今は『Seven Stars』『MILD SEVEN FK』を吸ってみているが、前者はいかにも煙草という煙草、後者は火を点け吸うより加えてた方が和むというこれまた微妙な感じ。吸いきったら『HOPE』『Peace』に戻ろう。『Peaceアコースティック』もちょっと懐かしい。味は忘れたが。

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posted by 若原光彦 at 07:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感

2004年11月27日

たぶん変わっていく

 いまさっき、自分のサイト短詩即興板に即興で詩を書いた。2編。記念碑的なものでもあると思うので転載しておく。

警戒されてしまった人のことを考える
わたしは
人間は何も求めない
そう思って生きている

求めるのは愚かなことだし
求められたものを与えるのは
不自然なことだと

期待という字は
何を待っている

そして警戒されてしまった人のことを考える
望むようなわたしではなかった
それはとても自然なこと
だけどいま何が悲しい


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posted by 若原光彦 at 16:33 | Comment(2) | TrackBack(0) | 雑感

2004年11月13日

ライター

 以前、炭酸水について書いたときにも触れたことだが、あらゆる嗜好品はその嗜好そのものだけでなく、その嗜好に対する倒錯(思い込み)によって選択され消費される。「おいしい」とか「気持ちいい」とか「好きだ」だけが理由なのではなく、それを選択し消費する「そんな自分自身が好き」だから選ばれる。嗜好品とはそういうものだ。
 それは例えばサーフィンであり、炭酸水であり、煙草である。ブーツであり、銀食器であり、楽器である。嗜好品は生活必需品ではない。嗜好品は効率や機能性とは無縁だ。尺度は人によって違うだろうが、大なり小なり(機能そのものだけでなく)倒錯を求めて使用される。

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posted by 若原光彦 at 22:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感

2004年11月05日

私は死にゆく喫煙者

 さっき、偶然こんな記事を読みました。

インテリジェンスの業界レポート:愛煙家がいなくなる日
http://tenshoku.inte.co.jp/msn/news/0119.html

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posted by 若原光彦 at 00:04 | Comment(1) | TrackBack(0) | 雑感

2004年10月25日

テレビの図表

 昨晩、テレビである番組をやっていた。牛乳にハチミツを入れて飲むと、牛乳だけを摂取する場合よりも体内のセロトニンが増加するのだという。ブドウ糖には、ある必須アミノ酸の吸収を助ける働きがあるのだと言う。

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posted by 若原光彦 at 01:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感